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“父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット──トールキン作品の基盤をなすもの

第二章 ナン・エルモスの森でつかまえて

──[サタンの娘〈罪〉、サタンに向かい]あなたは、自分と全く同じ像[すがた]をしているわたしを/見てすっかり魅せられ、ひそかにわたしと情を通じて[…]
──[蛇、イヴに向かい]貴女は美しい創造主[つくりぬし]の像[すがた]さながらに美しいお方です。
ジョン・ミルトン『失楽園』

薄明の子ら

「シル」すなわち「(白または銀色の光を放って)輝く」と、「リル」すなわち「輝かしさ」というエルフ語の細部を含む「シルマリル」[☆7]についての物語である『シルマリリオン』にあって、エオル一家の挿話(第十六章「マイグリンのこと」)は、二本の木を襲撃してヴァリノールから光を奪い、ノルドール族の王フィンウェを殺し、シルマリルを盗んで逃げてゆくメルコールと牝蜘蛛を、ヴァラールの長マンウェが「夜を貫き通して」眺めやった際、「かれの目をもってしても見通すことのでき」なかった暗黒の中の暗黒のように、翳り、くすみ、不吉な黒い輝きを放っている。エオルが、ヴァラールの〈召し出し〉に応じることなく、太陽が生まれる以前の星空の下の中つ国にとどまって二本の木の光を見なかったことからそう呼ばれる「ダーク・エルフ」の一人であり、森に住み、日の光を忌んで「深い影の中に暮らし、星空の下の夜と薄明を愛し」て、遠出する時は自ら発明した「黒々と輝く」金属で作った鎧に身を包んでいたからばかりではない。他の箇所では明言されなかったものが競ってここに流れ込み、留まり、よどみ、堆積した結果、容易に見極められない模様を織りなしているからである。
 公式の悪玉であるメルコールがモルゴス(「黒き敵」)と呼ばれ、その虚言は世の終りまで黒い果実(dark fruit)をつけると言われるように、『シルマリリオン』において黒/闇とは明示的に悪と否定性の象徴であるが、モルゴスの悪がことさら強調されながら実を伴わず、しばしば濡れ衣であるのに対し、エオル一家における悪は確かに存在しながら、薄闇を透かして見るように見分けがたい。だが、目をこらしさえすれば、それは思いがけない大胆さで真実を明かしている。

黒いエオルには、その名も対照的な「ノルドールの白い姫君(the White Lady)」、「白きアレゼル(Aredhel the White)」が配されている。ヴァリノールからモルゴスを追って中つ国に渡って来たノルドール族の一人であり、ゴンドリンの王トゥアゴンの妹であるアレゼルは、森を馬で駆けるのを好み、ナン・エルモスの森に迷い込んだ際にエオルに見初められる。

かの女をわがものにしたいと思ったかれは、かの女のまわりに魔法をかけ、かの女が外に出る道を見失って、歩けば歩くほど森の奥のかれの住居に引き寄せられるように計った。[…]/アレゼルが、さまよい歩いた末に疲れきって、やっとかれの館の戸口に辿り着いた時、かれはかの女の前に姿を現わし、かの女を暖かく迎え、家の中に請じ入れた。アレゼルはそのままそこに留まった。なぜなら、エオルがかの女を妻に娶ったからである。それから長い時が経つまで、かの女の身内の者は誰一人、かの女の消息を聞くことがなかった。(236)

これは、中つ国からヴァリノールへ召し出されたエルフたちの旅の終りに、テレリ族の王エルウェが行方不明になり、ヴァリノールにおいて、フォルメノスへ追放された息子を追って行ったフィンウェが都ティリオンに戻らなかったのと同じ、愛する相手によって同族に会えなくなるというモチーフ[☆8]の反復であるが、同時に、メリアンが所も同じナン・エルモスの森でエルウェを捕捉した事件の――彼が男で、王であるので、また、彼の方で恋に落ちたように書かれているのでわかりにくい(かもしれない)――のヴァリエーションに等しい真相が、ここではあっさり明かされている[☆9]。

二つの事件の同質性を示すもう一つの手がかりは、生まれた子供の名前である。エオルとの間にもうけた息子に、アレゼルは密かに、「薄明の息子」を意味するローミオンという名をつけるが、この名前を口にすることはなく、子供は十二歳になってはじめて、エオルによってマイグリンと名づけられたと語られる。

一方、ドリアスの王となったシンゴル(エルウェ)とメリアンの娘は、「シンゴルとメリアンの愛から、イルーヴァタールの子らの中でもかつて存在したこともないほど、またこれからも存在しないだろうほど美しいものが、この世に生まれ出たのである」と言われるルーシエンだが、彼女が夕べに林間の空地で踊るさまを見て恋した人間の男ベレンは、彼女をティヌーヴィエルと名づける。これが「薄明の娘」の意味であるのは偶然ではない(『シルマリルの物語』本文では「薄暮の娘」と訳されているが、薄暮も薄明も原文では“twilight”である)[☆10]。けっして呼ばれることのない名前をアレゼルが息子につけた理由も、これで了解されよう。アレゼルの内的な動機が問題なのではない。シンゴルがベレンに、ルーシエンと結婚したければモルゴスからシルマリルを奪ってこいと要求したとき、「今やドリアスは、より強大な国の運命の中に引き込まれてしまいました」とメリアンが言い、ベレンが助力を求めたナルゴスロンドの王フィンロドが、「この定めはシンゴルの意図をも超え、フェアノールの誓言の働きがここにも及んでいるように思われる」と嘆じたように、ここにはアレゼルの意図を超えた力が働いている。


月のように美しい

エオルとアレゼルは、ある意味でメリアンとシンゴルであるが、別のレヴェルではそれ以外のペルソナをも反復している。エオルは、いわば黒いフェアノールである(とはいえ、禁を犯しているのはノルドールの方だ)。彼らの外見の類似を挙げてみよう。フェアノールについては、次のように語られる。「かれは背が高く、見目形麗しく、支配する力を持っていた。目は射るように鋭く輝き(his eyes piercing bright)、髪は黒々と(his hair raven-dark)していた」(124)。一方、エオルは、「テレリ族の高貴な一族の血を引く丈高きエルフであった。顔こそ恐ろしげであったが、生来の品は争われず、目は、闇の中であろうと、暗いところであろうと、奥の方まで見通す(his eyes could see deep)ことができた」(235-6)。逃げ出したアレゼルとマイグリンを追ってきたエオルについて、ゴンドリンの王宮への使者はトゥアゴンにこう伝える。「名をエオルといい、上背あるエルフでございます。髪は黒く、見るからに狷介な(dark and grim)、シンダールの輩にございます」(242)。

共通するのは、身体的特徴や性格ばかりではない。フェアノールと同様、優れた工人である彼は、〈白い輝き〉であるシルマリルに対し、撞着語法的に「黒く輝く(black and shining )」金属、ガルヴォルンを発明し、また、隕鉄を鍛えて二振りの黒い剣を作る。ナン・エルモスの森に住まう代償に彼がシンゴルに献上したのが、その一つ、アングラへルで、これはベレグに下賜されて、トゥーリンが敵とあやまって他ならぬこの剣で愛するベレグを殺したのちは彼の所有となり、換喩的に彼の通り名(「黒の剣」を意味するモルメギル)ともなるものだ。その出自が〈星〉であることと、愛の対象の代理という点で、シルマリルに相当するエオルの作品は〈黒の剣〉であろう――エオル自身の愛ではないが[☆11]。「鍛冶仕事のために背が屈んでしまっている」(235)エオルは、いわばゆがんだフェアノールであり、その愛はいびつで黒いものなのである。

一方、アレゼルが「ゴンドリンの[あるいはノルドールの]白い姫君」、「白きアレゼル」と呼ばれるのは、髪は黒いが色が白く(pale)、「銀と白以外の色で身を装うことがなかった」(118)からである。アレゼルがナン・エルモスの木下闇に入り込んだとき、エオルは「小暗い森の中に、白くきらめく(a gleam of white)かの女の姿を目ざとく見つけた」(236)。彼と暮らすようになると、「エオルの命令で日光をこそ避けねばならなかったが、星明りの中、あるいは三日月の光を受けて、遠くまでかれと共に逍遥することもあった」。彼女が息子とともに逃げ出してゴンドリンに至るとき、後を追ったエオルは、「遠くにアレゼルの白い衣(the white raiment)を認め」(241)、隠れ王国への道を知ることになる。

こうした「白」「銀」「青白さ」、月光ないし星明りとの近縁性は、もう一人の女を即座に思い起こさせよう。実の兄とは知らずにトゥーリンの妻になったニエノールである。龍グラウルングにトゥーリンが殺されたと思われた際、彼女は最初は怯えていたのに、「月が出て、地に灰色の光を投げた(the moon rose, and cast a grey light on the land)」瞬間、「わが愛する者にしてわが夫であった〈黒の剣〉」を探しに行くのだと「先に立ってどんどん進んで」ゆく。しかし、「白い月光の中に(in the white moonlight)」かつてトゥーリンを愛したフィンドゥイラスを葬った塚を目にすると、「急に恐ろしさに襲われ、一声叫ぶと背を向けてマントを脱ぎ捨て、白い衣装を月光にきらめかせながら(her white raiment shone in the moon)」走り出す

通常、多くの神話において、男である太陽に対して月は女と見なされる。だが、ヴァリノールの木の一方、銀の光を放つテルペリオンが雄の木で、枯死する前に咲かせた花を入れた容器を天に上って運ぶのが男のマイア(精霊)であり、雌の木ラウレリンに生った果実が女のマイアによって運ばれ、前者が月、後者が太陽となったことからもわかるように、トールキンのシンボリズムでは月は〈男〉、日は〈女〉に割りつけられている。そして、月も日も、牝蜘蛛の毒を注ぎ込まれたあとの二本の木からできたため、シルマリルの光に較べれば次善のものとは言い条、月の方が太陽より好ましいとされているのは明らかだ[☆12]。ついでに言えば、エルフ語(の一つ、クウェンヤ語)で月は「イシル」で、「シル」をシルマリルと共有する。

「メリアンの美しさは真昼のよう 、ルーシエンの美しさは夏ののよう」(174)とは、このような、太陽が女であるという前提に基づいた修辞に他ならない。ただし、ルーシエンの場合は、「その目は星明かりの夕空の如き灰色をしていた」、「髪は宵闇のように黒かった」、その美しさは「夜霧の上に瞬く星々のようであった」、ベレンが彼女の姿を「丘の上に輝く星のように、遠くに認めた」と、夕べと星への参照も目立つ。また、ベレンがはじめて行き逢ったときには、「夕暮れて、月が昇り、ルーシエンは[…]色褪せることのない緑の芝草を踏んで踊っていた」のであり、ニエノールやアレゼルについての記述も、すでに見たように月のイメジャリーと切り離せない。にもかかわらず、彼女たち三人のいずれにあっても、その美しさを月そのものに喩えた例は見当たらない。これは意味のあることだと思われる。なぜなら、『シルマリリオン』において月にたぐえられるべき存在はただ一人で、「月のように美しい」とはそのために取っておかれるべき修辞であり、トールキンはそれを使うことがなかったからだ。

フェアノールの父、フィンウェは、顏のない男である。髪の色、目の色さえ、彼については記述がない。髪の色が日本の少女マンガ並みに(あるいは、後述のフィードラーの著書で論じられているように)問題になる――人物の性質や運命に関わる――世界において、これは無意味な細部ではありえない。
 アレゼルとニエノールとの類似は、二人ながらにフィンウェの反復であるところから来ているが、ここで注目したいのは、彼女たちが明らかに〈白〉の女として表象されながら、髪だけは黒く、金髪(fair)ではないことだ。レスリー・フィードラーは『アメリカ小説における愛と死』で、「アメリカの小説をたどってみると、「金髪の乙女」と並んでダーク・レイディが、純白の乙女には否定されているセックスの不吉な化身として登場していたことがわかる」と言い、金髪の「グッド・ガール」と黒髪の「バッド・ガール」の対立の「文学上の前例」として、シェイクスピアの『ソネット集』まで遡っている。「シェイクスピアの欲望の対象であり同時に憎悪されている黒婦人は、ロマン派の「つれなき美女」という概念と混合して、アメリカ独特のダーク・レイディの人物像ができたのである」。(言うまでもないが、『ソネット集』で〈ダーク・レイディ〉と対比させられているのはグッド・ガールではない――金髪のグッド・ボーイである。)

記憶喪失のニエノールに罪が無いことは明らかだとしても、白きアレゼルは「グッド・ガール」だろうか? エオルの奸計でおびき寄せられ、日の下を歩くことも、身内に会うことも禁じられた彼女について、「アレゼルにとって、この結婚が全く不本意なものであったとか、あるいはナン・エルモスでの生活がいつまでもかの女にとって嫌悪すべきものであったとは、必ずしも言えないようである」と語りは言っている。これは、アレゼルが女であるので、そのオリジナルに関しては伏せられていたことの仄めかしをしているのだろう。金髪のグッド・ガールになど、トールキンは何の関心もなかった(黒髪のバッド・ガールにもだが)。しかし、アレゼルの髪の黒さは、確かに悪の――情欲の――しるしではある。インディアンが良いインディアンと悪いインディアンに分けられるように、アメリカ文学の女は「『金髪の処女』とダーク・レイディ、すなわち洞窟の入口の輝かしい幻影と奥にひそむ恐しいムーア女に二分されている」とフィードラーは言う。トールキンの物語詩「領主と奥方の物語(レー)」の、(まさに)洞窟に住む水の妖精コリガンは、トールキンが下敷きにしたケルトの伝承では、男を引き寄せ破滅させる金髪の「グッド・バッド・ガール」であったが、トールキン版コリガンはその髪が[青]白い(pale)。これは、髪は黒くなくとも、アレゼルやニエノールのような白い女の系譜に属することを示すものだ。要するに、コリガンもまた、無垢な外見にセックスと死を隠し持った金髪の女(凡庸な水の妖精)でも、情熱的な黒髪の女でもなく、アレゼルのオリジナルと二重写しになる存在なのだ[☆13]。

月の女――男が夜であり月であるエルフの世界における、この矛盾した存在こそフィンウェなのだろう。「女の情欲」を持つ男、それがフィンウェである。男が情欲を持つのはあたりまえのことだ。だが、男が「女の情欲」を持つことはタブーなのだ。男であるものの女の顏、それは形容されることがなかった。 『シルマリリオン』における〈芸術家〉としてのフェアノールのミューズは、この、それと名指されることのない月の女であった。むくわれぬ愛がフェアノールにシルマリルを作らせた。それは、三つ揃っていればフィンウェそのものでありえた――しかし、それに生命を与えている光がそこから採られた二本の木は枯らされ、オリジナルのフィンウェは殺された。そして、父の複製であり、息子が作った父であるシルマリルはモルゴスに奪われ、その鉄の冠に嵌め込まれて以来(モルゴスにとっては猫に小判だったのである)、真の姿を見出されることは二度となかった[☆14]。フェアノールと七人の息子たち[☆15]は「かれらからシルマリルの一つを奪う者、それを手許に置く者、所有する者は誰であれ、この世の果てまで、復讐と憎悪をもって追跡するであろうと」誓うが、この誓言の本当の意味を承知していたのはフェアノールただ一人であろう。彼にとって、息子たちにぜひとも託さねばならぬ死後までも続く〈父の気がかり〉、何よりも優先されるべき当為は、次のことだったはずである――シルマリルの正体を誰にも知られてはならない。これは、『シルマリリオン』の意味をトールキンが人に知られてはならなかったことに相当しよう。そして、三つのシルマリルは最終的に、一つは星になり、一つは海に投じられ、一つは「大地の懐に抱き取られ」る[☆16]。

空に輝くシルマリルを見て、フェアノールの次男マグロールは兄のマイズロスに言う。「あれが本当に[…]シルマリルで、ヴァラールの御力で再び昇るのであれば、喜ぼうではありませんか。あの輝かしい光は、今や多くの者によって仰がれ、しかもあらゆる悪から安全なのですから」。
 もしもトールキンが生きていたら、シルマリルが悪の手に落ちた場合、いかなる問題が生じるのか訊いてみたいものだ。シルマリルは「一つの指輪」でも、『鉄人28号』の「操縦機(リモコン)」でも、 原爆でもない。悪の手に渡ったところで何の差しさわりもないのである(モルゴスも、それを所有しているあいだ、シルマリルの重さにひしがれながら地底の玉座にいただけだ)。マグロールはわけもわからずその科白を口にしているに過ぎまいが、もしこれを意味をなす形に書き直すなら、次のようになるだろう――「喜ぼうではありませんか。あの輝かしい光は、今や多くの者によって仰がれ、しかもあらゆる穿鑿から安全なのですから。『盗まれた手紙』にあるとおり、秘密にしておきたいものは一番目立つところに隠すのが最上の策なのですね」 


同性の近親

ところでエオルは、なぜ、十二歳になった息子に突然名前をつけたのだろう。これは、どうしてそれまで名前をつけなかったのかと考えたところで、答えの出る問いではない。積極的に名前を与えるような理由が、その時になって生じたと考えるべきである。
 一見、エオルが、自分によく似てきた息子に関心を持ったからであるようにそのくだりは書かれている。

十二歳になった時、父親はかれをマイグリンと呼んだ。〈鋭く見通す目(Sharp Glance)〉の意である。エオルは、息子の目が自分よりよく利き(more piarcing than his own)、思考力は、模糊たる言葉の向こうに心の秘密をも読むことができるのを認めたからである。
背丈もすっかり伸びきるほど成長するにつれ、顔形、姿形はノルドールの同族の方に似てきたが気持や精神は紛れもなく父の子であった。自分の利害に多少とも関係のあることを除き、口数は非常に少なかったが、いったん口を開くと、その声には聞く者を動かし、逆らう者を圧倒する力があった。かれは背が高く、髪が黒く、目の色も黒っぽかったが、ノルドール族の目がそうであるように光を湛えた鋭い目を持ち、肌の色は白かった。(強調引用者、237)

ここでは、はっきり語られていることよりも、隠されていることに注目しなければならない。いや、それは、けっして隠れているわけではなく、盗まれた手紙の隠し場所のように表面に露呈しているのだが、しかし語りはそれを示しつつ読者の注意をそらせるので、結果的に、エオルの息子は内面的には父に似ているという印象ばかりが残ることになる。
 しかし、実際に、彼は外見的に誰に似ていたのだろう?「背丈もすっかり伸びきるほど成長するにつれ、顔形、姿形はノルドールの同族の方に似てきたが」――あたかも、「気持や精神は紛れもなく父の子」とエオルが認めたことを告げるための前段であるかのように、それゆえに息子に関心を持って名前をつけたかのように書かれているここで、隠されると同時にあらわにされているのはマイグリンがアレゼルに似ていることである。「ノルドールの同族」とは、それをうちつけに言わないための言い換えなのだ。

はじめて登場したとき、アレゼルは次のように紹介されていた――「かの女は、エルダールの年齢では二人の兄たちよりずっと若かった。かの女は、背丈が完全に伸び、美しさが花開く時になると、丈高く力もある乙女になり[…]」(118、強調引用者)。「背丈もすっかり伸びきるほど成長するにつれ」とは、だから、マイグリンの美しさが花開く時になると、ということだ。「ノルドールの同族の方に」「ノルドール族の目がそうであるように」とことさら一般化されているが、マイグリンはその容貌が明らかに「白きアレゼル」に似ているのである(「肌の色は白かった」)。そして、息子が十二歳になる頃、エオルはそれをはっきり見て取るに至った。すでにそのとき「背丈もすっかり伸びき」っていたのかどうかはさだかでないが。

「確かにそなたはもう子供ではない」とエレンディルのようにエオルも言ったのだろうか。エレンディルのように、彼も「眼前にある白い躰を見下ろし」たり、「愛おしみ、美しいと思った」りしたのだろうか。エオルの目にも、「自分がほとんど知らぬうちに息子が一夜にして急に成長したように映った」のだろうか。「急に大きくなったな」とかれは口に出したのだろうか。「もうほとんど一人前の男子になりかけているぞ」と。それとも、何も言わずにただ自分の欲望を実行したのだろうか。エオルにも、エレンディル同様、息子は受け入れるという確信があったのだろうか。エレンディルのように、それでもなお彼にも逡巡があったのだろうか。テクストは何も語らない。ただ、息子と一緒に出かけるようになり、名前をつけたとあるだけだ。

名前をつけるとは、誰が誰に向かってする行為だろう? 第一に、それは親が子に対して行なうものだ。だが――ある意味でマイグリンと対になるルーシエンにベレンがティヌーヴィエルの名を与えたように、それは恋人の特権でもある。そして、父親が息子に名をつけるという外見の下にエオルがしたのはこれであろうと推測される。アレゼルは「星明りの中、あるいは三日月の光を受けて、遠くまでかれと共に逍遥することもあった」。だが、エオルがマイグリンを連れて出かけるようになると、彼女は暗闇にひとり取り残されるようになる[☆17]。明らかに、エオルはアレゼルからマイグリンに心を移し、アレゼルの代りに連れ歩き、アレゼルの代りに性対象にしているのだ。
 やがてマイグリンは、母方の親戚に会いたいと思うようになる。

[マイグリンは]ノルドール族をその目で見、遠からぬところに住むという同族のフェアノールの息子たちと言葉を交わしたいと望んだ。しかし、かれがこのような意図を父親に打ち明けると、エオルは激怒して言った。
 「わが息子マイグリンよ、お前はエオルの家の者だ。[…]わたしは、われらの同族の殺害者であり、われらの住まう国への侵略者、簒奪者たる者と関わりは持たぬぞ。息子にも持たせぬ。この件に関しては、お前はわたしに従わねばならぬ。さもないと、部屋に閉じ込めてでも外出を許さぬからな」(238)

そして実際、マイグリンは「もう二度とエオルと出掛けようとせず、エオルもまた息子に不信の気持ちを懐いた」とあるが、「それでも出掛けた」のならともかく、外へ出なかった息子に、なぜ「不信の気持ちを懐いた」のか、この記述ではさっぱりわからない。要するに、ここで問題になっているのはマイグリンが「もう二度とエオルと出掛けようと」しなかったことであり、これは彼の側からの性的拒絶を意味しよう。「息子に不信の気持ちを懐いた」ではなく、不満を抱き、恨めしく思ったというのがたぶん真相に近い。いかにも家父長的な「お前はエオルの家の者だ」発言や「同族の殺害者」云々は口実で、エオルが本当に恐れていることは別にある。結局その恐れが現実のものになるのだが。

 エオルの留守に、マイグリンはアレゼルに、伯父の治めるゴンドリンへの逃亡をそそのかす。「母上がわたしの道案内人になって下さい。そうすれば、わたしは母上の護衛になります」(238-9)
 それまでにもアレゼルは、もしそうしたければ、一人でも逃げ出せたはずである。息子が成長したために逃亡が可能になったというのは見せかけに過ぎない。「ナン・エルモスでの生活がいつまでもかの女にとって嫌悪すべきものであったとは、必ずしも言えないようである」のだし、「自分の気持の赴くままに、一人で出て歩くこともできた。ただフェアノールの息子たちや、ノルドールの誰かれに会いに行くことは禁じられていた」(236)のだから、監禁されていたわけでもない。エオルの禁止など無視して、いつでも「自分の気持の赴くままに、一人で出て」行けたのである。永遠に生きる彼らには、肉親に急いで会いに行く必要も特に生じない。息子からの働きかけがなければ、アレゼルには積極的にゴンドリンに戻ろうという気がなかったのだ。ここで彼らの逃亡が実行されたのは、もっぱらマイグリンが愛人としてのエオルを忌避したためと思われる。

ゴンドリンで、トゥアゴンははじめて会う甥を「好ましく眺めた」。そして、「マイグリンにはわが王国の最高の栄誉を与えてつかわすぞ」と宣言し、マイグリンも彼を「主君、王として、その意を体することを」誓う(241)。このあと、妻子を追ってきたエオルが王トゥアゴンと対峙したとき、何が起こったか。人間の知っているような家父長であれば、自分の管理下にある女を断りなく妻にした以上、普通ならはなから友好的な対応は望むべくもなく(現に、アレゼルたちを追ってゆく途中で出会ったフェアノールの息子クルフィンから、エオルは「ノルドール族の娘を盗み、贈り物もせず、許しも求めずにこれを娶る者は、その身内と親戚関係を持つことはできぬ」(240)と、けんもほろろな態度で扱われている)、アレゼルこそが彼らの争いの焦点になるはずだ。しかし、トゥアゴンがマイグリンを「好ましく眺めた」(要するに一目惚れしたのだ)あとでは、エオルとトゥアゴンの間で、彼女のことは全く問題にされていない。開口一番、トゥアゴンは、「ようこそおいでなされたわが縁者よ。わたしは御身をわが縁者と思っているのだ。御身はここで好きなように暮らされるがよい」と言う。クルフィンとは正反対の、彼の見解を完全に否定する、この愛想のよさ、この寛大さは何だろう。トゥアゴンは続ける。「ただ、この地に滞留し、わが王国から出て行ってはならない。ここに来る道を見出した者は、何人といえどもここから出ることを許されぬのがわが掟であるからだ」(242) 

これに対して、エオルは次のように言う。「わたしはあなたの掟を認めない。あなたにしろ、あるいはこの地におけるあなたの一族の誰にせよ、あちこちに領土を保有し、国境を設ける権利は全くない。ここはテレリ族の土地だ。この土地にあなた方は戦争と、あらゆる不穏なものを持ち込んだ。そして常に尊大、かつ不当な振る舞いをしているのだ。あなたの秘密など全く私の関知するところではない[…]しかし、あなたの妹であるアレゼルに対し、あなたに幾分の権利があるというなのなら、アレゼルはここに留まるがよい。[…]しかし、マイグリンはそういうわけにはゆかぬ。わたしの息子をわたしに返さぬというわけにはゆかぬのだ」(243)
 前半の政治的な問題が隠れ蓑であるのは明らかだ。ゴンドリンに入ってきた者は二度と生きて出ることを許されないのが掟だという、トゥアゴンの言葉が口実なのと同じである(「あなたの秘密など全く私の関知するところではない」(243)と至極もっともにエオルは応じている)。彼らは何をめぐって争っているのか。もはや、エオルにとっての妻、トゥアゴンにとっての妹が問題ではなく、一瞬のうちに焦点はマイグリンに移っている。

驚くほど寛大なトゥアゴンの態度と、まるで妻と違って離婚する権利すら無い愛妾か何かのように息子を所有物扱いするエオルの態度は、実は完全に拮抗している。ノルドールの同族がアレゼルの息子に対する性的権利を行使することを恐れたからこそ、エオルはマイグリンに彼らに会いに行くことを禁じたのだ。そして、この間(かん)、マイグリンが横暴な父に対して直接反発することなく、あくまで押し黙ったままということからは、ここが私たちの知る「父権」とはおよそ異質な原理に支配された世界であることが容易に見て取れよう。
 トールキンは『指輪物語』で、エルロンドの館で「仰ぎ見るも美しい女の人」を見たフロドが、エルロンドを女にしたほど(あるじ)とよく似ていたのでその近い身内に違いないと思ったと書き(実際彼女は、エルロンドの娘アルウェンであるとわかる)、『シルマリリオン』の異稿(『終わらざりし物語』所収)では、妹ニエノールの特徴をトゥーリンから尋ねられたドリアスの武人マブルングに、(彼らの父である)フーリンを女にしたようなと答えさせて、人間の読者を間違いなく躓かせるであろう〈異世界〉の片鱗をのぞかせているが[☆18]、マイグリンについて、アレゼルに似て美しいとは書かなかった。たぶん、そう言ってしまったのでは、あまりにも真実に近づき過ぎてしまうからだろう。しかし、ここでは、間違いなく、アレゼルを男にしたような美しい若者を、二人の近親者が争っているのである。

「そなたが望もうが望むまいが、わたしの下す判決がここでは法なのだ。そなたに残されていることは、次のどちらかを選ぶことだけだ。ここに留まるか、もしくはここで死ぬのだ。これは、そなたの息子にとっても同様である」(243)。トゥアゴンはこう言い放ち、王宮の広間は静まりかえる。アレゼルはこのとき、エオルが「危険な性質の持ち主であることを知っているので密かに恐れた」と語りは言うが、これもはぐらかしである。ゴンドリンにとどまるか死かを迫られ、「トゥアゴン王の目にひたと視線を据えたまま、怯む気配も見せず、一言も発せず、身動きもせず立ち尽くしていた」とき、エオルはトゥアゴンの意図を察し、このままここにいればマイグリンは間違いなくトゥアゴンの自由にされると悟った。マントの下から取り出した槍を息子めがけて投げたのは、それよりは二人ながらに死を選ぼうとしたからである。エオルの口から出る科白、「わたしのものをおまえに渡しはせぬ」(244)は、そう解さなければ意味をなさない。息子を自分の所有物扱いするひどい父親と、エオルは間違いなく顰蹙を買おうが、要するにそういうことなのである。

このときマイグリンをかばって咄嗟に飛び出したアレゼルは、エオルの投げ槍(javelin ないし dart)を肩に受ける。傷は浅かったのに、穂先に毒が塗ってあり、しかもエオルが毒のことを黙っていたため、彼女は死ぬ。このことは読者にエオルに対するあらゆる同情を失わせ、彼が絶壁から突き落す刑に処されることを「ゴンドリンに住む者すべて」とともに諾わせるであろうが、アレぜルがこのようにして死ぬのは、彼女がオリジナル(フィンウェ)の死を反復する記号であるからに他ならない(だからエオルの極悪非道ぶりは割り引いて考えねばなるまい。恐らく彼は見かけほど悪い奴ではない。アレゼルが息子につける名前と同様、彼の行動は作品の要請による)。ヴァリノールの二本の木はモルゴスの黒い槍(spear)で貫かれ、牝蜘蛛ウンゴリアントに毒を注入されて枯れたが、木への攻撃とフィンウェ殺害は一つのものであり、アレゼルの死はこれを忠実になぞっている[☆19]。


禍の不吉な種子

その後、マイグリンはトゥアゴンの寵愛を受けて重く用いられるようになるが、トゥアゴンの娘である王女イドリルに密かに恋していた。しかし、エルフのあいだでは、いとことの性関係は近親姦の範疇にあり、通常は考えにも上らない(「それまではだれ一人そうしたいと望んだ者もいなかった」(245)とされる。にもかかわらず、このようなことが起こったのは「同族殺害のもたらした悪しき果実」であると、例によって――モルゴスへの濡れ衣と並ぶ定番――「同族殺し」という偽りの理由づけが持ち出される。
 ここでもまた、なぜエルフにはいとこ同士で愛し合うことは思いもよらないのだろうと考えたところで意味がないのであり、同性間の場合はどうかと連想が働くのが、むしろ『シルマリリオン』の読者にとっては自然だろう。なぜなら、従兄弟同士のマイズロスとフィンゴンが相愛の仲であることは容易に見て取れ、「そうしたいと望んだ者もいなかった」どころでないのは明白だからだ。彼らはベレンとルーシエンに先んじて大鷲の背に乗るカップルであるが、重い傷を負ったベレンとともに鷲に運ばれているとき、ルーシエンが上空からゴンドリンの緑の谷の「燦然たるたたずまい」を雲のあいだに望み見るのは、人間の兄弟フーリンとフオルがゴンドリンへの往復にやはり鷲に運ばれているので、それを思い出させる――ルーシエンにではなく読者に――ためであろう。この中で明示的にカップルなのはベレンとルーシエンだけだが、逆にそこから、他のペアもそうであろうと推察される[☆20]。エルフの兄弟はほとんど例外なく夫婦のようで、お家騒動などありえず、間違っても相手を蹴落して取って代ったりはしない。双子も目立つが、女では皆無である(そもそも、兄妹はいても、女だけの姉妹が存在しない)。兄弟でさえそうなのだから、おじ/おいは全く問題ないと思われる。それどころか、父と息子でもオーケーだ――そうでなければ、マイグリンを中に挟んだトゥアゴンとエオルが、一瞬のうちに事態を了解することもなかっただろう。

ただ、「息子の女になりたい」というフィンウェの願望だけが、エルフの常識にも収まるものではなかった――。しかしトゥアゴンは、ある意味でフィンウェでもある。なぜなら、フィンウェが妻の忘れ形見への愛によって破滅したように、妹に似た甥を寵愛し続けた結果、国ごと破滅することになるからだ(ゴンドリンを放棄し、この地を去るようにという水の王ウルモの勧告も、彼はマイグリンの意見を容れて無視してしまう)。それも、敵が祝祭の日(モルゴスと蜘蛛がマンウェの宴の日にやってきたことを思い起こそう)に攻め寄せてくることまでもそっくり反復しながら[☆21]。

そして、マイグリンはある意味、フェアノールでもある。長身で髪と目が黒いことはエオル父子とフェアノールに共通する特徴だが、すでに引いたフェアノールについての「目は射るように鋭く輝き(his eyes piercing bright)」と、エオルが息子の目が自分よりよく利くと認めた(more piercing than his own)という部分は特に一致し、また、「フェアノールは言辞に長じ、かれの弁舌は、かれがそれを行使しようと思う時には、聞く者の心に大きな影響力を及ぼすことができた(his tongue has great power over hearts) 」(ヴァリノールを出て行く時の演説を見ても明らかだ)という記述は、マイグリンについて言われる「いったん口を開くと、その声には聞く者を動かし、逆らう者を圧倒する力があった(his voice had a power to move those that heard him)」(ゴンドリンの宮廷で権勢をふるうようになったのも――トゥアゴンの引き立てがあったにしても――理解できる)と一致している。

しかし歳月が流れ去っても、マイグリンは依然としてイドリルを期待の目でうかがい、待つことをやめず、かれの心のなかで愛は闇に変わった。そしてかれは、ほかのことでなお一層、己の望みを遂げることにつとめ、それによって権力を得ることさえできるなら、いかなる苦労も重荷も回避しようとしなかった。かくなるわけで、禍の不吉な種子が蒔かれたのはゴンドリンにおいてであり、それも、国中に仕合せが満ちみちた、王国の最盛期においてであった。(246)

マイグリンは近親の愛を得られない代償として、他のことで「己の望みを遂げる」べく職務に励んだ――これは、フェアノールが再婚した父への思いを抱いたまま、「かれらから離れて暮らし、アマンの地を探検してまわることや、自分が楽しみとしている知識や手の技に没頭した」(125)ことに相当する(ただし、マイグリンの場合、イドリルへの恋そのものは、多分に表面上の筋を整えるための設定であるが)。マイグリンも、「金属を求めて採掘、採石をすることが、いかなる手の技にも増」して好きであった(245)。ゴンドリンの最盛期に滅びの種子が蒔かれたというのも、フェアノールが父の新しい家族から離れて研鑽に励み、異母弟たちが成人してゆく頃、「ヴァリノールの盛時はその終わりに近づいていた」(126)とあるのに対応するものだ。フェアノールのときは、盛時の終りは例によってメルコール(モルゴス)のせいにされていたが、この場合は相手が女であるので隠す必要もなく、「王国の最盛期に」「禍の不吉な種子が蒔かれた」原因が、近親への望みの無い恋であることが明示されている。

マイグリンは、後年、鉱石を探しにゴンドリンの外へ出たとき、モルゴスの手先に捕われ、彼の軍隊が侵攻する際に手引きをすることを承知して、モルゴスからイドリルを約束される。禍の種子はこのようにして成長し、ついに刈り取られるわけだが、しかし、同性への恋は明示されていないため、ゴンドリンの滅亡はもっぱらマイグリンの禁じられた異性の近親への欲望が招いたことになっており、トゥアゴンの同性の近親への〈禁じられていない〉欲望は、それを見る目のない者には見えないままである。


トゥーリンの失敗とトゥオルの成功

王国の最盛期に禍の不吉な種子が蒔かれたことを語って「マイグリン」の章が閉じられたあと、私たちは二章先の第十八章すなわち「ベレリアンドの滅亡とフィンゴルフィンの死のこと」で、ゴンドリンの有力者になったマイグリンに再会することになる。エルフとの同盟者である人間の兄弟フーリンとフオルをモルゴスから救ったトゥアゴンは、彼らを一年近くゴンドリンで客人として厚遇する。なぜなら、「水の王ウルモからのお告げと夢」が、「来るべき禍をかれに警告し[…]いざという時に、かれらから助けが得られるだろうと」言われていたからだが、しかし、それとは関係なくトゥアゴンは兄弟を「非常に気に入り 」、「かれがこの二人をゴンドリンに留めておきたいと真実願ったのは、愛情から出たことであり」、隠れ王国に入った者は二度と外に出てはならないという掟のためばかりではなかったと語られる。
 やがて彼らは、同族の許へ戻る許しをトゥアゴンから得る。このときのマイグリンの反応は注目に値する。

しかし、王の妹の息子で、ゴンドリンで権勢を揮うマイグリンは、二人が王の寵愛を受けていることを妬み、かれらがいなくなることを全然悲しまなかった。彼は、人間には、いかなる種族であれ全く愛情を持たなかったからである。かれはフーリンに言った。「王の御慈悲は、そなたには分からぬぐらい広大なのだ。それに掟も以前ほど厳しくはなくなっている。そうでなければ、命が終わるまでここに留まる以外、そなたたちにはいかなる選択も与えられなかっただろう」

ここでもまた、人間には愛情を持たなかったからなどと、一般化された適当な口実で誤魔化されているが、マイグリンが「かれらがいなくなることを全然悲しまなかった」真の理由は直前の文に明らかだ。たぶん、トゥアゴンは、よく言えばおおらか、実のところいささか無神経な性質(たち)で、マイグリンを寵愛しながら、人間の兄弟――少なくとも兄はニエノールを男にしたような美貌だったわけで、ついでに言うなら、大鷲に救われてゴンドリンに運ばれてきたとき、弟はまだ十三、兄も十代の少年である――への関心も隠さなかったのだろう。マイグリンが彼らに向かって「掟も以前ほど厳しくはなくなっている」と言うとき、刑死した父の記憶が甦らなかったはずはない。

次に私たちが見出すとき、マイグリンは戦場でトゥアゴンの傍に持している(第二十章)。エルフの大敗に終わったモルゴスとの「涙尽きざる合戦」で、フーリンとフオルをはじめとする人間の生き残りがトゥアゴンを囲んで踏みとどまっているとき、彼らと王のあいだでは次のような言葉が交わされる。

その時、フーリンがトゥアゴンに向かって言った。「王よ、間に合ううちにお逃げ下さい! 王のうちにこそエルダールの最後の望みが生きているのです。ゴンドリンが立っているうちは、モルゴスの心から恐れは消えぬでありましょうから」
 トゥアゴンは答えて言った。「ゴンドリンはもはや、長く隠れたままではおられぬだろう。そして、発見されれば滅びるに違いない」
 その時、フオルが口を開いて言った。「しかし、今しばらくゴンドリンが倒れずにあれば、その時は殿の御家からエルフと人間の望みが生まれるでありましょう。王よ、わたくしはこのことを、死にゆく者の目で王に申しあげるのです。殿とわたくしは、ここで永久にお別れすることになります。殿のお国の白い城壁を再び仰ぐこともないでありましょうけれど、殿とわたくしとから新しい星が生じましょう。それではご機嫌よう!」
 王のそばに持していた王の妹の子マイグリンは、この言葉を耳にして忘れなかった。しかし、かれは何も言わなかった。

「殿とわたくしとから新しい星が生じましょう」――まるで彼ら二人の間に生まれるはずの子か何かのようにフオルが言う、そしてそのことをマイグリンが忘れなかった「エルフと人間の望み」とは、トゥアゴンの娘イドリルとフオルの子トゥオルの結婚が、最終的に世界を救う英雄を生むことを指す。フオルが戦死したのちに誕生したトゥオルは、時至るとウルモの導きに従って、案内役のヴォロンウェとともにゴンドリンへ向かう。その途上、龍のグラウルング通過後の汚染された「イヴリンの泉」で、黒装束に黒い剣を持った人間が北へ向かって無言で道を急ぐのとすれ違うが、これは、グラウルングの呪縛下にある、フーリンの息子トゥーリンである。しかし、従兄弟同士の二人は互いに相手を知らない。

ゴンドリンに着いたトゥオルは、都の広い石段を登り、王の居城でヴァリノールの聖なる木の写しである二本の木を見た後、トゥアゴンの前に立つ。この時、王の右手にはマイグリンが立ち、左手にはイドリルが坐している。  この視覚的なイメージの連続は印象的であり、一種の絵解きが可能と思われる。二本の木は言うまでもなく、ここが最初の、ヴァリノールの楽園であることを示す。 トゥオルの前にいるのは、実際にはゴンドリンの王トゥアゴンと、妹アレゼルの忘れ形見、そして実の娘であるが、象徴的には次のように解される――「王」はかつてのフィンウェであり、右手に立つのは「死んだ女の形見である同性の近親」、そして座っているのは「正統な婚姻を結ぶべき金髪の女」だ。すなわち、(選択すべき)二者と、その間で揺れる「王」という最初の構図の反復を、トゥオルは(それと知らずに)見ているのである。
 実はこれはたんなる見立てにとどまらない。というのは、前述したとおり、トゥアゴンはフィンウェを反復して(フィンウェの場合、「金髪のインディス」と再婚までしたが、それでも、息子への思いから逃れられなかった)、「同性の近親」を愛したために破滅するのだから。 しかしトゥオルはトゥアゴンの(そしてフィンウェの)轍を踏むことなく、金髪のイドリルを得ることになるだろう。

かつてベレグが、ドリアスを去ってトゥーリンの許へ赴くにあたり、シンゴル所蔵の名剣の中から、「燃える星となって天から降ってきた鉄から作られた」〈黒の剣〉アングラへルを選び出したとき、語りは「中つ国でこれに匹敵する剣はほかに一振りしかなく、その剣はこの物語には出てこないが、同じ鉱石から同じ刀鍛冶によって作られたのである」と言い、その刀鍛冶とはアレゼルの夫になるエオルであり、彼が「自分用に取っていた」対のアングイレルは、「後に息子のマイグリンが父親から盗み出した」と説明していた。
 「この物語には出てこない」剣に、なぜわざわざ言及するのか。これについては次のように考えられよう。べレグを殺したアングラヘルと対になる、もう一本の〈黒の剣〉は、トゥオルがゴンドリンに来た時にはマイグリンの所有だったわけで、トゥオルは、闇の運命をたどることを象徴する二振りの〈黒の剣〉のそれぞれの持主、トゥーリンとマイグリンの両方に邂逅したことになる。これはこの二人が本質的に同じ運命に呪縛された存在であることを示すものだ 。エオルとマイグリンという「二人のフェアノール」とアレゼルの物語と、べレグとニエノールという「二人のフィンウェ」とトゥーリンの物語は、同じ〈原罪〉の二つの変奏であり、二振りの〈黒の剣〉とトゥオルがこれをつないでいる。アングラヘルと違って一度も「この物語には出てこない」アングイレルは、このように姿を現わすことなく機能しているのだ。声に出して呼ばれることはなくともテクストに記されている、マイグリンのもう一つの名前と同じように。

トゥオルは、いとこのトゥーリンが失敗したところで成功している。トゥーリンの女性との関係には、ベレグとの同性間の関係が先行しており、ベレグの死後はナルゴスロンドの王女フィンドゥイラスの愛を退け、彼女の墓の上に倒れていたニエノールを妹と知らずに妻とした。ベレグを敵と見誤ったのと同じ、取り違えを繰り返したのである。トゥオルの場合も、実はゴンドリンに来る以前のヴォロンウェとの関係が、トゥーリンの場合のベレグとの関係に相当することは、『終わらざりし物語』に収められた「ゴンドリンの陥落」の長尺版における、トゥオルとヴォロンウェの愛情細やかな道行きを見れば了解されよう[☆22]。

トゥオルはウルモから貰った(身につけた者の姿を見えなくする「隠れ蓑」である)マントを指して、「これはあなたも一緒に覆うことができるだろう」と言い、「ヴォロンウェをそばにかかえこみ、水の王のひだになったマントをからだにまきつけ」て進む(『終わらざりし物語』上55)。また、ゴンドリンの入口で衛士に停められて、顏を見せるよう命じられた際の、「そこでヴォロンウェは頭巾を後へはずしたので、かれの顏が光の中で石に刻まれたようにはっきりと、またくっきりと輝いた。トゥオルはその美しさに感嘆した」(73)という記述は、ルーシエンについて言われる、「かの女の輝かしさ、かの女の美しさは樹々の葉にきらめく光、清冽な水のせせらぎ、夜霧の上に瞬く星々であった」や、フィンドゥイラスについての、「グウィンドールもまた、かの女の美しさを非常に愛して、かの女をファイリヴリンと呼んだ。〈イヴリンの泉にきらめく陽光〉の意味である」といったレトリックに馴らされた『シルマリリオン』の読者を、その具体性とリアリティによって驚かせよう。女を喩えるものが、光、水、星々といった、すべてすみやかに過ぎゆくもの、遁れ去るもの、儚くとらえがたい一瞬であるのに対し、石に刻まれたようなヴォロンウェの顏と肉体は、「はっきりと、またくっきりと」、手を伸ばせば触れられる確かなものとしてそこにある。ヴォロンウェはもともとゴンドリンのエルフであり、聖なる地を目指して「トゥアゴンが西方に送り出した最後の船に乗り組んで」ただ一人生き残った船乗りなのだが、ゴンドリンの衛士の長エレンマキルは、帰ってきた彼が連れているトゥオルを見て、「われわれはずっと友人だった。なぜこんなふうに残酷に、わたしを友情と掟の板挟みにおいこんだりするのだ?[…]ここに踏み込んだ異邦人としてわたしはこの者を殺さねばならない――たとえかれがおまえにとって最愛の友であるにせよ」とヴォロンウェに言う(誰も最愛の友だなどと言ってもいないのに)(73-74)。これはどう見ても嫉妬が言わせた言葉で、このエルフはたぶんヴォロンウェの昔の恋人なのだろう。

しかし、ベレグを失って傷心のうちにナルゴスロンドに辿りつき、エルフの王女に見向きもしなかった、そして結局のところ敵を呼び込み、ナルゴスロンドを滅ぼす疫病神になってしまったトゥーリンと違って、トゥオルはウルモに遣わされた、約束された者としてゴンドリンに迎えられる。「やがて、イドリルはかれに思いを寄せるようになり、かれもイドリルを思うようになった。それ故、マイグリンが密かにかれに懐いている憎しみはいやが上にも強まった。かれは、何にも増して、ゴンドリンの王の唯一の後継者たるイドリルをわがものにしたいと欲していた」。だが、これに踵を接した次の文章を見逃さないようにしよう。「しかし、トゥオルは王の厚い寵愛を受けていたので、ゴンドリンに住んで七年経った時には、トゥアゴンはかれに娘を与えることさえ拒まなかった」(106)。  マイグリンの、かつて「殿とわたくしから」新しい星が生じると言い残して死んだフオルの、「王の厚い寵愛を受けて」いる忘れ形見への憎しみは、誰に対する嫉妬から生まれたのか。表面上の筋はあくまで、「異性の近親」への横恋慕であるが。


エルフの原罪

イドリルとトゥオルが、「エルフの女」と「人間の男」のカップルなのは偶然ではない。呪われているのが「フィンウェの子ら」という、エルフの父系であるからだ。フェアノールの七人の息子たちは、人間と結婚させることのできる姉妹も娘も持たない、全員男の集団であり、父に従ってどこまでも追い求めることを誓ったシルマリルを抱いて滅びるしかない。
 『シルマリリオン』のはじまりで男二人(同性の同族)によって犯された罪は、最終的に「異性」の「異族」との結婚によって償われることになる。エルフの王女フィンドゥイラスを愛しえなかったことによるトゥーリンの悲劇は、同性/近親との関係から遁れられないという〈エルフの原罪〉と密接な関係がある。それまで同性とのみ親密な関係を結び、女をかえりみなかったトゥーリンは、フィンドゥイラスの代理としてのニエノールとの結婚により、かえってもう一つの罪に陥った。だが、いとこのトゥオルはエルフの王女と結婚して、そのあいだに生まれたエアレンディルは、中つ国とヴァリノールをつなぐ失われた海上の道を見つけ出し、死すべき身でありながら楽園に至り、ヴァラールに助けを求めることによって、ついにモルゴスを打ち破ることになるのだ。

半エルフの身でヴァリノールの土を踏んだエアレンディルは中つ国へは帰ら(れ)ずに、「汚れのない明るい炎が溢れるほどに充ちみちてゆらいで」いる船に「全身をエルフの宝石屑で飾り、額にはシルマリルを結びつけて」乗り込んで、「天つ海に船出」し、「日の出、日の入りにきらきら輝きながら、この世界の境界のかなたからヴァリノールに戻ってくる」ことになる。残り二つのシルマリルは、いったんマイズロスとマグロールの手に渡るが、宝玉は彼らの手を焼き、マグロールは自らの分を海中に投じ、マイズロスは「苦痛と絶望に身を苛まれ、ぽっかりと口を開いた、火の燃えさかる裂け目に身を投じて死んだ。かれが抱いていたシルマリルは、大地の懐に抱き取られた」。

シルマリルの一つとともにエアレンディルもまた星になるわけだが、海に沈んだいま一つのシルマリルにとって、エアレンディルに相当するのは、彼のまたいとこである生まれなかったトゥーリンの子ということになろう。『終わらざしり物語』に収録された長尺版では、ニエノールは断崖から急流に身を投げる際、「水よ、水よ、今こそ抱きしめておくれ、フーリンの娘、ニエノール・ニーニエルを[…]抱きしめて、海まで運んでおくれ!」(強調は引用者)と叫んでいる。
 マイズロスはといえば、アンティゴネーとしての運命を全うしたと言えよう。ライオスとイオカステーを一身に兼ねたフィンウェをミューズとし、フェアノールがいわば実の父との間になしたシルマリルは、マイズロスにとっては兄弟でもあり(祖父でもある)、彼はこの兄弟を埋葬し自らも死ぬことで、祖父の結婚前の男色に端を発するテーバイ王家の悲劇との相似を完成させるのである。

ところで、ヴォロンウェはどうなったのだろう、かつてヴァリノールへ至らんとしてトゥアゴンによって度々試みられた西方への旅から、ただ一人生きて戻った航海者ヴォロンウェは。長尺版はゴンドリン到着で中断しており、残念ながら彼のその後についての記述はない(もしあれば、私たちはマイグリンについてもっと詳しく知ることができただろう)。しかし、ゴンドリン陥落時に、 城壁の上で取っ組み合いになったマイグリンを城壁の外に投げ飛ばしたトゥオルと、彼とともに脱出した者たちは、落ちのびてシリオンの河口近くに定住する。そして、「忍び寄る老いを感じ」るようになった頃、「大海原への憧れ」を募らせたトゥオルは、「イドリル・ケレブリンダルとともに、日没する西方に向けて船出し、その後は、いかなる物語にも、歌にも、もはや二度と現われなかった。しかし、後の世の歌に歌われたところでは、定命の人間の中で、トゥオルのみが長子たるエルフ族の一人に迎えられ、かれの愛するノルドール族に加えられることにより、人間の運命から切り離されたという」のだが、しかし、後の世のテクストには記載がないとしても、この旅立ちに、かの老練なエルフの船乗りが同行しなかったなどということは、よもやありえなかったであろう。[☆23]。

☆7 『シルマリリオン』序文に収められたミルトン・ウォルドマンへの手紙による(23)

☆8 言うまでもなく、ドリアスを出奔したトゥーリンを連れ戻しに行きながら、「かれへの愛情に負け、分別に背いてトゥーリンの許に留まり、帰ってゆこうとしなかった」ベレグもまたこの反復である。註12も参照のこと。 

☆9 「テレリの王エルウェは、しばしば大きな森を通って、その友フィンウェをノルドールの宿営地に訪ねた。ある時、たまたまかれがナン・エルモスの星明かりの森にひとりさしかかった時、突然小夜啼鳥(ローメリンディ)の歌が聞こえた。かれは、魔法にかけられた者のように恍惚として身動(みじろ)ぎもせず佇んだ。すると、ローメリンディの声のかなたに、遠くメリアンの声が聞かれた。その声は、驚嘆と欲望で彼の心を奪った」(110-111)。実はこの時も彼はフィンウェを訪ねるところで(邦訳は曖昧だが、原文だと読み違いようがない)、それをメリアンに邪魔されたのだ。繰り返そう。エルウェはその日もフィンウェの許へ行く途中だったのが、メリアンによって仲を裂かれたのである。

☆10 さらに、巻末の「クウェンヤ語及びシンダール語の固有名詞を構成する主要部分」で「lome」の項目を見ると「薄暗がり」とあって、lomionとlomelindiが例として挙げられている。lomelindiとはメリアンとシンゴル(エルウェ)の出会いの時に鳴いていた鳥で(註9参照)、ティヌーヴィエルと同様、小夜啼鳥(ローメリンディ)のことである。つまり、マイグリンとルーシエンの別称は同じ意味でありながら、ちょっと見にはそれとわからぬよう設定されているのだ。

☆11 エオルがアレゼルを殺すと、トゥーリンがベレグを殺す〈黒の剣〉は、フィンウェを殺したモルゴスの「黒い槍」を二つに分けたものだと言える。

☆12 太陽も月もなかった時代に中つ国の星空の下で目覚めた者としてのエルフを指すエルダールという語は、星の民という意味である。一方、人間とは、ヴァリノールの木が失われ、太陽と月が生まれてから誕生した存在だ。太陽が「人間の目覚めと、エルフの衰微の印」であるのに対し、月は「エルフたちの思い出を今も大切に懐いている」。エルフが目覚める前の中つ国で、ヴァラールは星の数と輝きを増さしめるため、銀の木からしたたり落ちた光の露を使っている。シルマリルに閉じ込められた光とはテルペリオンとラウレリンが同時に輝いて混じり合ったものであるから、星の光は太陽や月とは違い、シルマリルに閉じ込められた光の一部と同質でさえあるわけだ。さらに言えば太陽/月、エルフ/人間の対立は同性愛/異性愛の対立と重なるのだが、これについては最後で触れる。

☆13 鈴木薫「人でなしの恋――『シルマリリオン』論序説」(ウェブ評論誌「コーラ」9号)を参照されたい。

☆14 フェアノールの手を離れて以来、シルマリルに真に反応したのはただシンゴルだけである。これは、彼がフェアノール以前に、フィンウェを性的に愛した者だったことによる。シンゴルがフェアノールの息子たちからシルマリルの引き渡しを要求された時、これをはねつけたことについては、もっともらしい理由に加え、「それに、日ごとシルマリルを眺めるほどに、これをいつまでも手許に置きたいという気持もいや増していた。シルマリルにはこういう力があったのである」と、あたかも誰にでも及ぼされうる一般的な力であるかのように書かれているが、そのような記述は他には全くなく、「時が経つにつれ、シンゴルの思いは絶えずフェアノールの宝玉に向かい、これにはなはだ執着を覚えるにいたり、宮殿の最も奥の扉の中に秘蔵するだけでは気がすまず、寝ても起きても絶えず身につけていたいという気持になっていた」(394)という事態は、これが、シルマリル一顆と交換された/にしか値しないルーシエンと単純に比較しても三倍に相当するもの(の一部)であることが、シンゴルに感知されていたからだと考えなければ説明がつくまい。むろんこの認識は無意識のものだ。ナン・エルモスの森以来、シンゴルはメリアンの催眠下にあったとおぼしく、あたかも龍グラウルングに魅入られたニエノールのように、フィンウェに関する記憶を著しく弱められていたと思われる(メリアンがフィンウェの死について言及した時の彼の反応が「悲しみと不吉な予感に胸塞がれて沈黙した」だけだったことからもそれはわかる)。彼がすべてを思い出したのは、恐らく、シルマリルを見つめながら死んでゆくその瞬間であったろう。

☆15 フェアノールの息子はなぜ七人なのだろう(エルフの子沢山は他に例がない)。ヴァラールの一人であるアウレが、イルーヴァタールの許可なく(男ひとりで)造ったドワーフの父祖がやはり七人だったことが思い合わせられる。フェアノールのもう一つの名はクルフィンウェ(クルは「技」の意味)、息子たちの別称にもすべて同様に“フィンウェ”が付されている。恐らく彼は、愛する父に似た子の誕生を願って、七(たび)肉の息子を得たのち、あきらめて、女によらずして父を産むプロジェクトに取りかかったのだ。

☆16 ヴァリノールにおいてシルマリルが作られたとき、「シルマリルには、アルダ[マンウェが治める国としての地球]の運命、大地、海、空気が閉じ込められている」とマンドスは言ったが、三つのシルマリルの行き先は、この「大地、海、空気」に対応している。註21をも参照のこと。

☆17 このことは本文においてわざと離して書かれている。つまり、マイグリンがエオルとともにしばしばドワーフの都を訪ねて教えを受けたと語ってから二節先の終りで、アレゼルが身内の者に会いたいと思うようになったことが述べられ、「その上かの女は、息子と夫が留守の間は、ただ一人暗闇にいることも多かったのである」と、ついでのようにつけ加えられているのだ。

☆18 「父親に似て美しい」娘の原型は、たぶん『失楽園』のサタンの娘、〈罪〉である。男の単性生殖と近親姦のモチーフもここには欠けていない。自分にそっくりの娘にサタンが欲情した結果、〈死〉が生まれているが、『シルマリリオン』においてはフィンウェとフェアノールの罪の結果、人間に死がもたらされる。これについては最終章で触れる。

☆19 二本の木の樹液を吸い尽くしてなお足らぬ牝蜘蛛ウンゴリアントは、飽くことを知らない〈女の情欲〉の化身に他ならず、また、彼女自身、毒を持つ存在として、ナサナエル・ホーソーンにおけるバッド・ガールの原型としてフィードラーが挙げ、次のように述べている、毒ある花園で育てられたベアトリス・ラパチーニ(『ラパチーニの娘』)に通じるものがある。「ゴシック風のお膳立てで神秘めかしてごまかしているけれど、ベアトリスの秘密の武器、つまり彼女を超人的に、「美しいと同時に恐しい」女にさせたはずの毒が何であったか誰の目にも明白である。もちろんそれは、彼女が与えられている性の魔力なのである」。黒い槍で突かれ毒を注入されて死ぬ(フィンウェ)は、彼自身が毒を持つ牝蜘蛛でもあるのだ。

☆20 『指輪物語』のクライマックスでフロドとサムが大鷲に助けられるのがこの反復であるのは言うまでもない。自分たちの冒険が「片手のベレンと大宝玉の話」の反復であることをここに至ってサムははっきり意識しているが、たとえ彼は知らなくとも、これに先立ってオークに捕われたフロドを助けに来たとき、彼が歌をうたい、それに応えた声を頼りに主人を探し当てたのは、ベレンとルーシエンをはるかに遡る昔、モルゴスによって絶壁に鉄の枷をかけた右手首で吊されたマイズロスをフィンゴンが探しに来たとき、歌い交わして居所をつきとめた故事の反復であり、ベレンとルーシエンを跳び越えて、男同士のカップルと彼らとの同一性を証していたのである。手ないし指の欠損と、それによる、ゴクリに指を噛み切られたフロドといにしえのヒーローとの類似については、サムは狼に片手を噛み取られたベレンの例を知るのみだが、マイズロスもまた、フィンゴンによって手首を切断され、ともに鷲に運ばれている。

☆21 成長した同性の近親を愛するようになるまでのいきさつにおいても、トゥアゴンはフィンウェの辿った道をなぞっている。フィンウェは、親しかったエルウェ(シンゴル)をナン・エルモスの森でメリアンに拉致され 、ヴァリノール到着後に娶った妻を亡くして息子に恋する。エルウェは中つ国にとどまって自らの王国ドリアスを営み、フィンウェはノルドール族の王として都ティリオンに住む。一方、トゥアゴンはいとこのフィンロドと親しんだが(妻には、中つ国への氷の海を渡る際に、都合よく死なれている)、ウルモのお告げを夢の中でそれぞれ(実は同牀同夢であったが)受けたため、わかれわかれになって別々の国を建てることになる。ウルモはヴァラールの一人、メリアンはそれより下位のマイアールと呼ばれる精霊で、いずれもアルダより年ふる彼らは、いわば作 者(イルヴァタール)の意を体して物語を進める役割を担う者と言える。フィンロドの王国ナルゴスロンドの館はドリアスの王の居館メネグロスを模して作られ、トゥアゴンのゴンドリンは「ティリオンの都に倣って」設計されたのだから、この点でも彼らはエルウェとフィンウェを反復している。

☆22 クリストファー・トールキンがこの原稿に関連する父の覚え書きとして付した次の文が、ある意味すべてを語っていよう。「トゥオルが最初にイドリルを目にした時、あるいはそれより前のどの時点かで、かれが今まで女性と知り合うことはおろか、その姿を目にすることもほとんどなかったことを、強調すべきだということ」(『終わらざりし物語』上)。母を生後間もなく失ったトゥオルは美しいエルフの男たちに囲まれて育ち、人間の女は悪の勢力に奴隷にされている哀れな存在としてしかその姿を見る機会がなかったのである。

☆23 『終わらざりし物語』所収の長尺版ではじめてトゥオルとヴォロンウェが出会った際、トゥオルはこう予言してもいた。「だが嘆くなかれ、ヴォロンウェ! あなたの道が影よりも遥か先へ伸びているのがわたしには感じられる。そしてあなたの望みは再び海へと還るだろう」(上14)
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