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目羅博士とカリガリ博士

※「砂男、眠り男──カリガリ博士の真実」コーラ掲載後の関連話題。以下、鈴木のブログより再録

安宅凜との共著二作目「砂男、眠り男――カリガリ博士の真実」掲載。
編集人が『カリガリ博士』(ロベルト・ヴィーネ監督、1919年製作、20年公開)のスチール写真(と呼びたい)を入れてくれた。

書き上げたあと起こった例の大地震で本棚から落ちてきた(作りつけなので倒れはしないが、平積みにしていた本が宙を飛んだ)文庫本を拾い上げ、江戸川乱歩の『目羅博士』(雑誌連載時のタイトルは『目羅博士の不思議な犯罪』)を久しぶりに読んで、この短篇が明らかに『カリガリ博士』と『砂男』を下敷きにしていることに気がついた(『カリガリ博士』自体、『砂男』が発想源の一つであると思われることは上の拙論で述べた)。

もちろん乱歩は『砂男』を読んでいる。1929年に改造社から出た「世界大衆文学全集」の一冊「ポー、ホフマン集」の翻訳者ですらあるのだから(この本は、昔、神保町で見かけて買った。『探偵小説四十年』によると名義貸しらしいが)。ホフマンの作は『砂男』と『スキュデリ嬢』を収めていて、前者はオリンピアが自動人形とわかってガラスの目玉を投げつけられたナタナエルが発狂し、“癲狂病院”へ送られた後に省略がある。快癒したと信じられた主人公が塔から身を投げる部分が存在せず、クララが他の男と結婚して幸せになった結末を接続して終っているのだ(『カリガリ博士』のおもてのプロットのように、「それ以来、彼は個室[独房]で鎖に繋がれたままです」というわけか)。あらためて目を通してみたところ、コッペリウスが幼いナタナエルを人形のように扱う描写(種村季弘訳では「コッペリウスはぼくの肉体をがっきと鷲づかみにし、手足をねじ切ってそれをまたあちこちと嵌め替えるのだった」ちなみに、拙論で重要な細部として言及している)も欠けていた。探せば他にもあるだろう(この改造社のシリーズは、ハガードの『洞窟の女王』と『ソロモン王の宝窟』を一冊にしたのがうちにあったのを子供の頃発見して自分のものにしていたが、『洞窟の女王』に(『ソロモン王』の方は調べていない)かなりの省略があるのに最近になって気づいた。当時は普通の事だったのだろう)。

「ポー、ホフマン集」には『ウィリアム・ウィルスン』も入っていて、これも明らかに『目羅博士』先行作品の一つである。落ちてきた文庫本(角川文庫の「暗黒星」)の解説には、「連続自殺の着想はエーヴェルスの「蜘蛛」から借りたといわれるが」とあるのみで、エーヴェルスは未読だが、文庫クセジュの『幻想文学』(これ自体はつまらない本)を見ると、「リヒャルトは勇気のあるところを見せようとして、以前の住人たちがつぎつぎと自殺したという部屋を借り、向かいの窓に女の姿を認める。この女が次第にテレパシーの作用を彼に及ぼすようになる。彼が女の致命的な蠱惑に屈するのに、さして時間はかからなかった」と紹介されている。

乱歩の短篇では、しかし、連続自殺のあった部屋に面した向かいあう窓に現われるのは蜘蛛女ではなく、「月の光の中でさえ、黄色く見える、しぼんだような、むしろ畸形な、いやないやな顏」である。「よく見ると、そいつは痩せ細った、小柄の、五十くらいの爺さんなのです」。「その笑い顔のいやらしかったこと、まるで相好が変って、顏じゅうが皺くちゃになって、口だけが、裂けるほど、左右に、キューッと伸びたのです」

「五十くらい」で「爺さん」なのは、三十代で中年、四十で初老の時代であるからだ(『心理試験』も読み返したが、被害者は「もう六十に近い老婆」なのであった)。チェシャ猫か、『カリガリ博士』の“眠り男”役コンラート・ファイトがのちに演じたこともある「笑う男」のように笑うこの「爺さん」は、「三菱何号館とかいう、古風な煉瓦造りの、小型の、長屋風の貸事務所」の「一軒の石段をピョイピョイと飛ぶように登って行く」のを、物語内物語の語り手に目撃される「モーニングを来た、小柄の、少々猫背の老紳士」で、「目羅眼科、目羅聊斎」という看板のある事務所に消え、そこに住む目羅博士その人であることが判明する。「むしろ畸形な、いやないやな顏」という嫌悪感を催させる外見と、猿を思わせる動作の描写は、『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』のハイドを思わせ、また、カリガリ博士その人のイメージでもあろう(『ジキル博士とハイド氏』と『カリガリ博士』の関連についても上記拙論では触れた)。

内容的には目羅博士を眼科医とする必然性はないから、これは要するに『砂男』の眼鏡売りコッポラのレミニッサンスであろう。「きれいなおめめ」を売りに来たと言ってナタナエルをギョッとさせるコッポラは大量の眼鏡を並べてみせ、「キラキラピカピカ妖しい光をはなちはじめた何十何百という眼がひきつるようにぎらぎらと輝き、それがナタナエルのほうをいっせいに見詰め」る。それをしまうと、今度は眼鏡売りは「大小さまざまの望遠鏡」を取り出す。ナタナエルは「一梃の小体な、みごとな仕上げの望遠鏡」を手に取り、窓の外にそれを向けて、室内にいるオリンピアの美しさを目のあたりにするのだが、乱歩はこの遠眼鏡を浅草十二階下に向けて傑作『押絵と旅する男』をものする一方、眼科医という設定によって、何の不自然さもなしに、「あすこの診察室の奥の部屋にはね、ガラス箱の中に、ありとあらゆる形の義眼がズラリと並べてあって、その何百というガラスの眼玉が、じっとこちらを睨んでいるのだよ。義眼もあれだけ並ぶと、実に気味のわるいものだね」という語りを引き出してくる。しかし、それに続く、「それから、眼科にあんなものがどうして必要なのか、骸骨だとか、等身大の蝋人形などが、二つも三つも、ニョキニョキと立っているのだよ」という言葉は、その場面が『カリガリ博士』の院長室からじかに由来することを証し立てていよう。あそこに立っていた骨格標本(目羅博士の部屋ではキノコのように増殖したらしい)を、乱歩も確かに見たのである。「等身大の蝋人形」とは、このあと、殺人のトリックの小道具として使われるものであるのはもちろんだが、『カリガリ博士』における夢遊病者チェザーレの替え玉人形そのものでもあろう。

「目羅博士の不思議な事件」を語る青年に、「私」は上野動物園の「サルの檻」の前で出会い、上野の森の「暗い木の下道」で「僕知っているんです。あなた江戸川さんでしょう。探偵小説の」と言われて「ギョッと」する。そして、「あなたは、小説の筋を探していらっしゃるのではありませんか。僕一つ、あなたにふさわしい筋を持っているのですが、僕自身の経験した事実談ですが、お話ししましょうか。聞いてくださいますか」という申し出に、ご飯でも食べながらと応じるが、相手は、自分の話は明るい電燈の部屋には不似合いだと言い、「ここで、ここの捨て石に腰かけて、妖術使いの月光をあびながら、巨大な鏡に映った不忍池を眺めながら、お話ししましょう」と答える。そして語り終えると、「立ち上がって、私の引き留める声も聞こえぬ風に、サッサと向こうへ歩いて行って」しまう。

私は、もやの中へ消えて行く、彼のうしろ姿を見送りながら、さんさんと降りそそぐ月光をあびて、ボンヤリと捨て石に腰かけたまま動かなかった。
 青年と出会ったことも、彼の物語も、はては青年その人さえも、彼のいわゆる「月光の妖術」が生み出した、あやしき幻ではなかったのかと、あやしみながら。

動物園の猿の「猿真似」に発する「目羅博士の殺人」のいわゆる「トリック」は、説明してしまえば児戯に類するものであり、それを読ませるものにしているのは、「月光の妖術」ならぬ乱歩の文章の力である。それだけが「あやしき幻」を支えているのであり、「青年と出会ったことも」幻であるというなら、「私」は分身に会ったことになり、自分の中にあった物語を語ってもらったことになろう。
 昨日、『屋根裏の散歩者』(1925年)をこれも久しぶりに読み返したが、あの明智と郷田三郎は、もう、互いが互いの分身のようなものだ。退屈しきっていた郷田三郎は、明智のせいで「今までいっこうに気づかないでいた「犯罪」という事柄に、新らしい興味を覚えるようになった」のだし、明智は数々の犯罪物語を「けばけばしい極彩色の絵巻物のように、底知れぬ魅力をもって、三郎の眼前にまざまざと浮かんでくる」ように語りきかせるのだから、これはもう乱歩の小説に夢中で読みふけるようなものではないか。実際、「彼はさまざまの犯罪に関する書物を買い込んで、毎日毎日それに読み耽る」ようになり、そこには「いろいろの探偵小説なども混じっていました」。そして、できるものなら、自分もその主人公になりたいと思うが、しかし、「法律上の罪人」になるのは嫌なので、“犯罪の「まね事」”をはじめる。

「コーラ」11号掲載の「男と云ふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島」で、私は 谷崎の『秘密』の主人公について、“しかし「私」はやがて遅れて東京にやって来て本当に「探偵小説中の人物」になる、江戸川乱歩描くところのカウンターパートのように、能動的に何かをしようというのではない。剣呑な品物もそれで世界に働きかけるのではない。「私」自身の言うとおり、「犯罪を行はずに、犯罪に附随して居る美しいロマンチツクの匂ひだけを、十分に嗅いで見たかつたのである」”と書いたが、むろん、このとき念頭においていたのは『屋根裏の散歩者』の主人公である。しかし、あらためてこの小説を読んでみると、彼は浅草へ出かけて、尾行だの、暗号文を書いた紙切れだので「遊戯」を行なっては「独り楽し」み、おまけに女装して映画館に入ったりするのだから、『秘密』の語り手と何ら変わるところがないのだ(むろん乱歩の意識的な「まね事」であり、すでに影響関係が云々されているのだろう)。周知の通り、郷田三郎はその後「犯罪のまね事」の舞台としての「屋根裏」を発見して「屋根裏の散歩者」に、そしてついには「殺人者」になる。頃やよしと訪れた明智は、被害者の部屋を三郎自身に案内させ、彼と問答を交わした末、ある夜、彼の部屋の押し入れの中に、天上からさかさまにぶらさがった首として出現して、三郎を驚愕させる。

「失敬、失敬」
そういいながら、以前よく三郎自身がしたように、押入れの天上から降りてきたのは、意外にも、あの明智小五郎でした。
「驚かせてすまなかった」押入れを出た洋服姿の明智が、ニコニコしながらいうのです。「ちょっと君の真似をしてみたのだよ」[著者による強調。原文は傍点]

『目羅博士』(1931年)の「猿真似」の主題は、ここにも通じていたのだった。しかも、このことは、明智が犯罪者の分身であることをますます明らかにしていると言えよう。思えば明智は、郷田三郎に犯罪(物語)の魅力を手ほどきし、さんざん煽っておいて、ついに実行にまで至らしめ、それを分析してみせたようなものだ。初期の明智は彼自身が限りなく犯罪者に近い。

安宅凜との共著三作目は、乱歩の『孤島の鬼』を論じたものになる予定。私の乱歩再読のせいではなく、安宅さんがこの長篇小説をはじめて読んだためである。

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