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砂男、眠り男──カリガリ博士の真実

安宅凜・鈴木薫

はしがき

筆者らの一人(安宅)がたまたまDVDで『カリガリ博士』“Das Cabinet des Dr. Caligari” ロベルト・ヴィーネ監督、1919年製作、20年公開)を見たことから本稿は書かれた。安宅はこの映画に強い印象を受けたのだが、調べてみても、映画史上に名高いこのサイレント・フィルムを論じた文章で、安宅が見たものについて触れている例は一つも無かった。それどころか、「あらすじ」と称するものさえ、およそまともに書けているものは見当たらなかったのである。もう一人の著者である鈴木は、遥か昔にどこであったかもう正確には思い出せない複数の上映会場のスクリーンでこの映画を見ており、一度はメモを取っているが、その内容は――“眠り男”チェザーレは語り手フランシスの分身で、恋敵を殺し、恋する女を寝室から攫って逃げる、彼の欲望の代行者であり、それと知らずにフランシスは、外界の事件として可視化された自らの欲望の上演に立ち会っている。彼の内面の出来事であるために徹底的に人工的なセットの内部、すなわち「カリガリ博士のキャビネットの中」で一切が生起する――といったものであった(と回想される)。鈴木だけではそれ以上の認識に至らなかったろうが、例によって安宅がこれ以上ないほどあざやかに作品を分析してみせたため、以下の論証を共同で行なうことになった。主要な解釈は安宅のものであるが、言ってみれば、安宅の脚本(あるいはスコア)を鈴木が自分なりに撮影(演奏)したということになろうか。

『カリガリ博士』について論じる過程で、私たちは必然的に、これまでなぜ、この有名なフィルムについて、まともな批評がなされてこなかったのかを考察することになった。そして、その結果として、既存の批評の主に次の二つの立場に、異議を唱え、反対することになった(なお、この二つの立場からの批評は、『カリガリ博士』論に限らず、今なお広く行なわれているものであることを言いそえておこう)。一つは、芸術作品を論じる際に、「性的なもの」と「知的なもの」を結びつけることができない――前者を、矮小化、局所化するために――立場であり、もう一つは(一つめと関連するが)、あらかじめ作り上げた物語=歴史に、植民地化したジャンル(ここでは映画)の作品を取り込んで利用する――作品を単純に時代を反映するものと見なして、もっともらしい文化史を捏造する――立場である。

本稿で対象としたのは、英語とその日本語訳字幕付DVD『カリガリ博士』(IVCベスト・セレクション)(A)*と、YouTubeに上げられたそれより長い英語字幕ヴァージョン(B)http://www.youtube.com/watch?v=ecowq77Y3C0である。(B)は画像が鮮明で、字幕もあらたまっており、英訳のヴァリエーションという以上の異同が見られる(ただし、物語の大筋に影響はない)。
 傷みの激しいヴァージョンhttp://www.youtube.com/watch?v=xrg73BUxJLI&feature=relateもYouTubeには存在し、これは英語字幕は(A)と同じだが、(A)(B)からはカットされたと思われる古いクレジット・タイトル(英語)が本篇の前に流れ、その最後には「この話は十一世紀の伝説のカリガリ博士の、現在への再びの出現を語る」といった趣旨の文章が読まれる。この「伝説のカリガリ」の年代については、病院長室のキャビネットから見つかった本のページ(としてインサートされる映像)が、内容も含めて(A)と(B)では異なっており、たとえば(A)ではカリガリは「十一世紀の修道僧くずれ」、(B)では「十八世紀の神秘主義者」である。
 映画の内容や字幕について、必要と思われる際は(A)(B)どちらのヴァージョンかを文中で示したが、煩雑になるのを嫌って断らなかった場合もある。(A)の字幕を引用するのに日本語字幕の訳には必ずしも従わなかった。ドイツ語字幕版はウェブ上には見つからなかった。


★Bのタイトル画面

*(A)もYouTubeで見られる。

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