Back to Top

砂男、眠り男──カリガリ博士の真実

一 探偵の仕事

もしみなさんが刑事として殺人事件を調べるとしたら、犯人が自分の写真に現住所を書きそえて現場に置いておくことを期待されますか? そうではありますまい。みなさんは探している人物の残した、微弱な、はっきりしない痕跡だけでよしとするでしょう。ですから、ほんの些細なしるしを軽んじてはならないのです。十中八九までは、この些細なしるしから重大なものの手掛かりtracesを得ることができるからです。
「精神分析学入門」(サラ・コフマンの引用による)

観客にゆだねられた“解決”

『カリガリ博士』はドイツ表現主義映画の傑作であり、歪んだ書割めいた(実際、書割なのだが)特徴的なセット美術でも有名云々といった説明なら、あらためてここで試みるまでもなく、映画ファンならとうに御存じであろう。そうでなくても、山高帽に丸メガネ、マントを着て杖を持った小柄な老人と、その傍に直立する棺のような箱の中の“眠り男”の、あるいは、気絶した女を脇に抱え奇妙なセットの中を逃げてゆく黒ずくめの怪人のスチール写真なら、目にしたことがある方も多いかもしれない。「カリガリ博士」というそれ自体印象的な名前をどこかで聞いた覚えがあるという方はさらに多かろう。最近では、「ホラー映画の元祖」だの、「最古の妄想オチ映画」だのと言われもするらしい(トールキンをRPGの祖というたぐいか)。カリガリ博士という無気味な老人が夢遊病者チェザーレ(“眠り男”)を操って起こした殺人事件が回想として語られるが、実は語り手フランシスは狂人で、回想部分は妄想であり、カリガリ博士はフランシスが入院している精神病院の院長だった――ごくごくかいつまんで筋を追えばこんなところであろうか。

しかし、それ以上に長い「あらすじ」となると、研究書やウェブで探してみても、まず、例外なく、重要なシーンを落したり、逆に勝手に補足して話を「作って」しまっていたりする。たぶんそれは偶然ではない――細部が軽視され、〈物語〉に還元されがちであるとは映画一般について言いうることであるが、特にこのフィルムの場合、物語自体に一種の推理小説的なトリックが仕掛けられている。最初から疑わしい人物は犯人ではないという定石通り、あからさまに怪しいカリガリ博士なる殺人者は存在しなかったことが最後に判明するが、明示的に探偵役が謎を解いてみせるような親切な作りではないので、大半の観客には仕掛けの存在すら気づかれまい。観客はまさに探偵のように、手がかりとしての細部に注目しなくてはならないのだが、何が重要かさえ初見では認識不可能だから、少なくとも二度見なければわかるまい。記憶を頼りにするしかなかった時代の観客が構造を理解できなくても、あるいは無理はなかったかもしれない。だが、読者がこの文章を読んでいるPC上で、パブリック・ドメインとして置かれたファイルに今すぐ接続して確かめることも可能な今日でさえ、それまで観客が見てきたもの、すなわちフランシスの回想として語られた部分が実は語り手の妄想であったという結末は、「ただの妄想で全ては無意味だった」と受け取られるか、さもなければ、「本当に妄想だったのか」という点に注意が集中してしまいがちであるようだ。

まず押えておくべきは、妄想だったことが明かされたからといって、それまでの回想部分が無意味になる訳でも、否定される訳でもないということである。それどころか、回想として語られた(演じられた)部分は、「現実」として提示される部分との関連において、新たな光の下に照らし出されることになる[☆1]。夢遊病者を操って殺人を犯すカリガリをフランシスが追いつめるという設定は架空のものであった。それは、犯人があらかじめ置いた偽の手がかりに、無能な警察がうまうまと釣られて描いた筋書きのようなものであったのだ。しかし、こんなものはまだ“真相”ではない。この映画の場合、言ってみれば真相が明かされる手前で話が終わっているのである。  事実のレヴェルでは、院長はカリガリ博士ではなかった。しかし、フランシスが彼をカリガリ博士と思い込んだことには“意味”がある。ラスト・シーンで院長は、彼を「カリガリ博士」(とは、しかし、何か?)と呼んで暴れたフランシスを診察して、「彼の偏執病がどんなものなのか理解できた。彼は私を伝説のカリガリだと思っているのだ。しかしこれで彼をどうやって治せばいいかわかった」と言う。奇妙な同語反復の印象を与える幕切れ――だが、これは要するに、院長が、「カリガリとは何であるのか、なぜフランシスが院長をカリガリだと思い込むに至ったのか、それを解き明かせ」と観客に言っているのだ。この時、院長の考えぶかげな眼差し(妄想部分でカリガリ博士に扮していた時とは別人のようだ)は、部下の二人の医師をさしおいて、キャメラの方、つまり私たちに向けられている。

ホームズ/フロイト

『カリガリ博士』という映画には――映画というものは一般にそうであるが――目に見えるものとは別に、どこか深いところに意味がひそんでいる訳ではない。全ては表層に、観客の目に見えるところに隠されているのだが、物語を性急に追う眼差しはそれを通り過ぎてしまうのである。探偵にとってと同様、一見重要ではない物、人目をひかない、見過ごされるようなディテールにこそ手がかりがある。と言っても、それは見落すのが当然と思われるような“細部”とは限らず、物理的に意外に大きな部分を占めていることもある。今回安宅が見つけたある手がかりもそうで、本稿を最後までお読みになられた方は、ご自分の目にもそれが間違いなく映っていたことをお認めになるだろう。

原題の「カリガリ博士の箱(キャビネット)」とは、チェザーレを入れた吸血鬼の寝床めいた箱であり、それが置かれたカリガリ博士と名乗る香具師の見世物小屋であり、カリガリ博士と同一視された院長の宰領する精神病院という(城や僧院のように)閉ざされた空間であり、そこにある院長の部屋であり、その中に備え付けられたキャビネットでもあろう[☆2]。さらには、キャビネットから見つかった(それ自体が妄想の一部なのだが)『夢遊病者』なる古い書物も箱の一種と見なされよう――「カリガリ博士の箱」と題された章が、ここにはさらに入れ子になっている。〈中心紋〉的合わせ鏡の中で見出されるページには、十八世紀のイタリアでカリガリ博士と名乗る神秘主義者が、箱の中で眠る夢遊病者チェザーレを見世物にして各地の市(いち)を回りながら、彼を操って殺人を繰り返し(疑いをそらすためにはチェザーレそっくりのダミー人形を箱に入れておき)、町々を恐慌に陥れたという記事が読まれる[☆3]。

しかし、院長はカリガリの生まれかわりでも模倣者でもなく、この名前の一致は、フランシスが本の内容を見つける前から知っていた――自分の頭の中にすでにあるものを外部に“発見”した――ということしか意味しない。院長がカリガリである証拠をフランシスが見出したと信じる場所もまた彼の内部なのだ。「内面」と呼ばれるものも映画では通常、外部にあらわれるのであり、いわゆる回想シーンは俳優によって実際に演じられ、事実上、空想と現実の別は無い。フランシスの内面もそうやって外化されていた――舞台装置としての異化された外界とはフランシスの歪んだ内面であり、そこに彼の妄想が投射されるスクリーンであった。彼の回想と思われたのは、過去にあった出来事(フランシスの狂気の原因になった事件)が著しく変形されたものであったのだ。フランシスが語り終わった時、その場所がまさに精神病院の中であることが判明する。
 それよりもある意味さらに衝撃的なのは、回想の中に登場した人々が、実は病院の患者であったことだ。フランシスの過去に彼らはいなかった。病院に来てから出会った院長と患者たちを彼が(勝手に)キャスティングして、過去の事実として語り、上演したのが、フランシスの回想だったのである。それに立ち会う観客が身を置く内部空間もまた、カリガリ博士のキャビネット(映画館という見世物小屋?)に他なるまい。

映画産業の草創期であり、精神分析の草創期でもあった時代に、「心の世界」と「映画」の類似はすでに人々の関心を引きつけたようだ。『心の不思議』(1926年)なる精神分析医が協力した映画も作られたが、そこではいわば映画が夢を再現しようと努めている(ちなみに主演はカリガリ博士役のヴェルナー・クラウスである)。映画を知った人々の夢は映画に似かよいもしたことであろう(私たちの夢は、多かれ少なかれ映画のように編集されているのではないか)。「浸透する夢と映画。夢は一つの投影、すなわち内的過程のある一つの表出である」と書いたフロイトを受けて、「芸術作品もまた内的な動揺を終結させる「投射」なのであり、夢のように、欲望の幻覚的な充足を可能にする」とサラ・コフマンは言う(『芸術の幼年期』)。「だから、芸術作品もまた、幻覚性のパラノイア精神病に似ているのである」とコフマンが続ける時、その「芸術作品」とは何よりもまず映画を思わせよう。実際、フランシスが(回想という名の下に)私たちに見せる“映画”は、まさしく「幻覚性のパラノイア精神病」の結果と呼べそうなものだったと判明する。『映画――想像のなかの人間』で、エドガール・モランは夢と映画をあえて混同しようとした諸家の言葉を引いている――「映画とは夢である」(ミシェル・ダール)、「映画は人工の夢」(テオ・ヴァルレ)、「夢もまた映画ではないか」(ポール・ヴァレリー)、「私は眠りにつくときに、映画を見にいく」(モーリス・アンリ)、「私たちに対し、夢の可視化を可能とするために動く映像がとくに発明されたように思われる」(ジャン・テデスコ)。もう忘れられてしまったかもしれないが、カラー映像があたりまえのものとなる以前には、夢は映画と同じく色彩が無いと信じられたり、色つきの夢は狂人が見るものという説がまかり通ったりした。

フランシスの妄想は、(一般的にはフロイトが明らかにしたように)夢、空想、神経症の症状、さらには小説や映画のテクストと、その組成において基本的に異なるものではない。フランシスの“狂気”も物語にとってはたんなる口実――それも恰好の――である。表現とはそもそもストレートに語ることではなく、歪曲のうちに隠蔽しつつ、ある条件の下で可能性を汲み尽くすことであるからだ。外部の痕跡をたどって探偵が見かけとは異なる真実に達するように、フランシスの「内面」として仮構されたものもまた、症状として表出されたものの意味を読みとることによって明らかにされるはずである。私たちにゆだねられたのはまさにそうした作業であり、夢を外見上統一している不思議な筋書き、夢から覚めた人が無防備に他人に喋って面白がられる(あるいは退屈される)あの奇妙なシナリオから、夢分析はその本当の意味、当人にも自覚されない「潜在思考」を引き出す。フランシスの夢=妄想とは、そのようにして解読されるべきものではなかったか。この映画が作られて九十年以上が経つが、その作業はどうやらなされぬままであったようだ。

スクリーンの夢魔

むろん、映画と夢には大きな違いがあるのであり、映画が映画館の他の観客たちにも同時に見られているのに対し、たとえば『カリガリ博士』の初めと終りの外枠部分に登場する、宙を見つめたままのあの特徴的な人々は、いわばそれぞれの頭の中の、他の誰からも切り離された孤独な映画を見ているのだ。しかし、フランシスの場合、彼の“映画”は親しく共有される――「全てのことが遠いところで、かれの行動の射程の外で生じている」とモランが指摘する、麻痺したように座席で不動状態になり、あたかも目だけの存在になった観客によって。「夜の暗さにとざされた劇場のなかで、亡霊と分身=影の魔術的な働きが白いスクリーンの上に浮かびあがり生じてくると」(モラン)――そう、映写機の微かな響きとともにフィルムの中の不動の死から甦り、黒ずくめの衣裳に包んだ長い手足で夜の闇に跳梁し、寝室の窓に忍び寄る分身=影――“眠り男”の登場である。

謎の解決は先送りされたものの、夜の窓にあらわれて、閉ざされた室内に入り込み、ベッドで眠る美女に近づく夢魔の黒い影――この原型的なイメージが、二十世紀の無意識のスクリーンに忘れ難く刻印されたことだけは確かなようだ。種村季弘はその若書きの映画論で美女と野獣(ここでは美女を攫う野獣)のテーマについていささか荒っぽく総括する中で、「この種の物語の白眉といえば、やはり『モルグ街の殺人』にとどめをさす。大都会の場末を月光を浴びながらさまよい歩く、孤独で兇暴なオランウータンと美女掠奪のテーマは、のちの『キングコング』、『コンガ』、『コンゴリラ』のような、摩天楼の彼方に全裸の美女を掠奪して消える反文明的な夢想の怪物を、つぎつぎにスクリーンに登場させる原型的発想となった」(「怪物のユートピア」)と記し、マリリン・モンローのイメージを使ったケネス・アンガーのコラージュ作品を経て、「巨大なロボットが金星か月のような世界の上で眠れる美女を抱きかかえて棒立ちになっている」アメリカのSF雑誌にまで説き及んでいるが、この、(脱線気味の)ポオ解釈にはじまる系譜の中に、われらが(通俗的に理解された)“眠り男”も位置づけられよう。この種のモチーフをめぐって、種村はさらに「狼人」との近縁性を主張して次のように述べる。

近年の狼人伝説はむしろある種の月遊病患者の生態を思わせる。催眠状態の月遊病患者が、大脳新皮質の働きを失っただけ旧皮質の働きをフルに発揮して、ふだんではとうてい考えられないような、まさに(ましら) のごとき身軽さを獲得し、ビルの壁をよじ上ったり、細い金棒の上をなんの苦もなく歩いたりすることはよく知られている。とまれポオのオランウータンやスティーヴンソンのハイド氏には、この狼人伝説の記憶が色濃く影をなげかけており、おそらく発生的には別でありながら、吸血鬼伝説にもとづくさまざまの物語(『ドラキュラ』)にもなんらかの影響を及ぼしたにちがいない。

若き種村の面目躍如と言うべき風呂敷の広げ方で、奇怪なセットの切妻屋根や山道の尾根を美女を横抱きにして渡ってゆく(そして転落する)“眠り男”が入っていないのがむしろ不思議に思われるが、どう見ても濡れ衣のオランウータンはともかく、ここにハイド氏やドラキュラの名があるのは興味深い(そういえばブラム・ストーカーの原作では、ドラキュラも城の垂直の外壁を自在に這い降りている)。ホームズものの一つにも「這う人」というのがあったし、ハイドの毛深い手や体つきもそうだが、こうした先祖返り的形象には進化論というトピックが少なからず影を落してもいよう。しかし、ここで注目したいのはそうしたことではない。ほとんど強迫的にスクリーンに回帰してくることになったハイドやドラキュラ、彼らは本来、女を襲う能動的で攻撃的なヘテロセクシュアルの男性主体とは言い難く、にもかかわらずそう誤認されてきたという点で、チェザーレと共通するものがあるのである。

ドラキュラは、女を独占する、息子たちが打ち倒すべき〈恐しい父〉と見なされがちだが、ブラム・ストーカーの原作を読めば、ドラキュラが女吸血鬼と争い、彼女たちにからかわれながら、ジョナサン・ハーカーを懸命に己がものとしようとしていることがわかるだろう。かの伯爵は映画などで強調される、犠牲者を魅了する女蕩しからはほど遠く、女吸血鬼たちもドラキュラの情婦などではありえない。エレイン・ショウォールターは、『ドラキュラ』においてトランシルヴァニアとは「セクシュアリティが流動する地」であり、「ハーカーのトランシルヴァニアへの旅はレオとホリーのコールへの旅なのだ」と言っている。『洞窟の女王』(原題は“She”)のアフリカへの旅が、不死の女神を探しに行くかに見えて実はコールの洞窟の〈彼女〉を殺し、ホリーとレオが女にわずらわされずに生きる道を開くものであったように、トランシルヴァニアとは異性愛規範がゆるがされる「オリエント」であるのだ。(「オリエント」については『“父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット』(「コーラ」10号)の第三章でも書いた。)ロンドンに舞台が移ってからの、ドラキュラによって“淫乱”にされた女たちをホモソーシャルな男たちが救済/絶滅させる話とは一線を画す、トランシルヴァニアでのパートのたぶん最も重要な部分は、作者自身によって『ドラキュラ』の本篇から切り離され、歿後にストーカー夫人の手で短篇集に収められた「ドラキュラの客」である[☆4]。伯爵の城を訪ねる旅の途中、道に迷ったハーカーを狙った女吸血鬼は雷に打たれて焼死(誰の差し金かは明らかだ)、意識が混濁したまま雪の中に放置されたハーカーは、大きな狼にのしかかられ、喉をなめられていることに気づく(もともとドラキュラは「狼人」なのである)。救出に来た兵士たちによって「突き通っていない」と判断される喉の傷を負ったハーカーは、自分を招いた「ドラキュラ」(この固有名詞はストーカーの小説によって有名になったのだから、むろん彼はその正体を知る由もない)の指示による「神秘的な形の庇護の下」に置かれていたことを知るが、そこで彼を襲う深刻な心身の動揺に合理的説明が与えられているとは言い難い。物語はここで終っているが、このまま行けば、狼と伯爵の同一性が明かされ、雪原では未遂に終った行為がドラキュラの城で成就されるしかなかったろう。しかし、そうする代りに、ストーカーはこの部分を削除して、現在見られるような、ドラキュラに魅入られた罪ある女が滅び、無垢の女が救われ、ハーカーが幸福な結婚生活を送るというプロットを完成させたのである。

『ドラキュラ』にも二つながら出てくるように、そもそも催眠術と夢遊病は世紀末において人に知られた現象であった。ルーシーは夢遊病になってさまよい出ている間に吸血鬼となるのだし、ドラキュラも、ヴァンパイア・キラーのヴァン・ヘルシング博士も催眠術を使う。『ドラキュラ【完訳注釈版】』の註に見る通り、メスメリズムのいかがわしさを催眠術から払拭したのは、ヒステリーの女性患者に催眠術を施して劇的な発作を起こしてみせたシャルコーであった(フロイトがパリでこれを見学したのは有名な話だ)。フロイトは第一次大戦中に行なった一般向けの講演で、自らを理性的な主体と疑わない聴衆に対し、「夢遊状態」にされた人が、覚醒後、はじめは何も覚えていないと主張するにもかかわらず、催眠状態に置かれた間の出来事を思い出すという例を反証として挙げている。「彼は自分が知っていることを知らず、その出来事を知らないと信じていたのです。ところで、私たちが夢をみた人について推測した事実も、これとそっくりといえます」(『精神分析学入門』)。周知の通りフロイトは催眠療法を廃して自由連想法をはじめたが、医師への患者の惚れ込みが転移の結果であることを悟り、ひるがえって催眠暗示が治療効果を上げる際にもリビドーが働いていた(フロイトがパリで師事したベルネイムは知らなかった)ことに気づいた[懸田克躬の同書解説による]。

しかし、その名も「催眠術師とあやつり人形」という論考で種村が使っている、ヒステリー発作を起こす世紀末の女性患者が影をひそめたのち、催眠暗示にかかりやすいのは小市民となり、「表現派映画に登場するあのおびただしいあやつり人形たちは、かくてプレファシズム時代の小市民的現実の正確な反映にほかならなかったのである」とか、「ヒトラー以前に、ドイツ小市民はすでに夢遊病者だったのである」といった、クラカウアー(『カリガリからヒトラーへ』)写しのレトリックは煽りとしても感心しない[☆5]。種村は医師を装った男が女性患者に催眠暗示をかけたハイデルベルク事件を挙げ、また、「夢遊者の反犯罪」と題するエッセーでは、これは下って五十年代の話だが、男が男に催眠術をかけて銀行に押し入らせたコペンハーゲンの事件を紹介しているが(『失楽園測量地図』)、集団心理学もどきよりこうした個別的事象の方が、例としては適切であろう。いずれの場合も催眠術師は被施術者と性的関係を結んでいた。

フィギュア/分身

しかし、カリガリ博士とチェザーレは、上記のごとき「催眠術師とあやつり人形」の関係にある訳ではない。『カリガリ博士』の、社会的地位のある行ない澄ました紳士(医師)が実は犯罪者だったという表のストーリーは、『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』のあからさまな流用であろう[☆6]。類似はそれだけにとどまらない。スティーヴンソンの小説の場合も、殺人を含むハイドへの疑惑は「表のストーリー」であり、「裏のストーリー」は伏せられている。いや、近年の研究を見ると、それは隠されていた訳では全くなく、『性のアナーキー』の著者エレイン・ショウォールターによれば、スティーヴンソンの周囲では暗黙の了解があった上、この小説が刊行されたのは英国で男性間の性行為を犯罪化する法律が施行されたのと同年同月(1886年1月)であり、冒頭に出てくる「ゆすり」という語は、それだけで当時の読者には同性愛を連想させうるものだったという(ちなみに、『性のアナーキー』のこの章は「ジキル博士のクローゼット」と題されている)。つまり、殺人という表面上の嫌疑の下に、当時ドイツでも英国でも実際に刑法に触れる犯罪であった同性愛の主題が潜んでいるという点も含めて、『カリガリ博士』は『ジキル博士とハイド氏』を“粉本”として使っている――つまり、ここには、『ジキル博士とハイド氏』をそういうものとして理解しえていた「作者」(あるいは作者たち)の意図が働いていたと思われるのだ。

スティーヴンソンの小説でハイドの“悪徳”の正体――女の子を踏みつけたり老紳士を殴り殺したりは、たまたま表面に出た事例であり、彼が夜中に出歩いて耽っていたらしい、恐るべき(と、ほのめかされる)“悪徳”が何かは語られない――は最後まで不明のままだが、カリガリ博士がチェザーレに殺人を教唆した直接の証拠も、実はない。見世物の許可を願い出たカリガリが役所で高圧的な役人に横柄な扱いを受ける、カリガリが市で見世物の口上を述べる、件の役人が殺された現場が映し出されるという三つのシークェンスをつなぐだけで偽の因果関係が生じ、カリガリが恨みからチェザーレを使って殺人を犯したと、私たちがたやすく信じてしまうだけだ。殺人の命令に限らず、カリガリ博士がチェザーレに何らかの具体的な悪事を指示する場面はもちろん、催眠術をかけるシーンすら存在しないのである。

それではカリガリは何をしているのか。チェザーレと二人きりでいる時、彼は、箱の中に半身を起こして目を閉じた“眠り男”に、粥を一匙ずつ手ずから食べさせてやったり、チェザーレを抱きよせて“愛撫”したりしている。つまり、(フランシスの分身としての)夜の冒険を除くなら、私たちに見せられるのは、何らかの形でカリガリ博士がチェザーレを“愛して”いることを示す身ぶりばかりである(こんな簡単なことがなぜこれまで見過ごされてきたのだろう)。“眠り男”とは失神した美女を誘拐する「野獣」からはあたうかぎり遠い、“愛される”ことを特徴とする受動的存在なのだ。

フランシスの回想の終り近く、彼が先頭に立って院長室に乗り込み、運び込まれたチェザーレの遺体を前に院長が錯乱するシーンがある。これを指してクラカウアーは、「フランシスは、院長に、その犯罪を認めさせるべく、彼の道具である夢遊病者の死体を見せた。この怪物はツェザーレが死んだと認めるや否や、荒れ狂いだした」と書いている。しかし、先入見のない目で見れば、これは殺人が露見したからではもとよりなく、愛する者を失った悲しみのあまりであろう。
 これに先立つ、眠ったままの夢遊病患者として院長室に運ばれてきたチェザーレをはじめて見るシーンでの、彼の喜びようにしても、殺人のための道具を手に入れて喜んでいるのではなく(むしろ、注文した等身大フィギュアが到着したと思って頂きたい)、 院長はさっそく人払いをして、さも嬉しげにチェザーレを“愛撫”している。院長が人々の前で彼の遺体に取りすがるシーンは、有頂天を悲しみに逆転させた、前段の反復に他ならない。見世物小屋の恐しげなメーキャップをほどこした眠り男とは違い、ここでのチェザーレは、俳優がもともとそうである白皙の美青年であり、特に、遺体となって画面手前に横たえられた構図のまま、後景で院長が取り押えられる騒ぎの中、穏やかな表情で、彼と同様静止したままのキャメラにとらえられ続けているのは印象的だ。

チェザーレの遺体が見つかったからといって、連続殺人の犯人としての院長の正体が暴かれた訳ではない。それは彼の殺人への関与はもちろん、チェザーレのそれさえ証しはしない――フランシスの友人アラン殺害のシーンで私たちが見るのは、襲われたアランの恐怖の表情と壁に映った影ばかりである。「万事休すだ、カリガリ博士」と、遺体を運んできたフランシスは言うが、それは何を意味するのだろう。どういう意味で、彼はカリガリを追いつめたと思っているのだろう?

虚心に見るなら、院長室に踏み込んだ人々によって暴かれた院長の罪――人目をはばかるものであり、暴かれることで破滅に至るほどの行い――とは、チェザーレを手に入れた時にそうしていたような、同性に対する“愛”の行為としか思えない。チェザーレを手に入れ、衆人環視の中で――人払いをしても観客がいる――彼を愛撫する院長。もしチェザーレが美青年ではなく美少女であったなら、彼が何をしているかは一目でわかってしまっただろうに、女を男にするというただ一点の変更だけで、かくも大胆な行動に出ても観客(と検閲)は気がつくまいと製作者は思ったのであろうか[☆7]。

結論から先に言うなら、夢遊病者チェザーレとは、フランシスの潜在意識が生み出した、スクリーンに映る影さながらの分身である。チェザーレの行為はフランシスの「行動の射程の外で生じている」から、フランシスは彼のすることを他人事(ひとごと)としか思わずにいられる。といっても、チェザーレは、フランシスの“生き霊”として”恋敵”をベッドで刺殺した訳ではないし、女の窓から忍び込み、眠っている女に襲いかかって、失神した女を抱えて逃げる、フランシスの抑圧された欲望の代行者でもない。いや、確かに彼はフランシスの欲望のインカーネートしたものであるのだが、九十年ものあいだ、その欲望の性質は見誤られてきたのである。

傷口にしてナイフ

フロイトは論文「無気味なもの」でホフマンの『砂男』について論じながら、主人公ナタナエルが恋する自動人形オリンピアは、子供時代の彼の「父親に対する女性的態度を物質化したもの」であり、自己愛の投影であると述べている。人形を男に変えれば、それはそのまま、〈父〉(同性)に受動的に愛される男性主体という、本来の――そして男性主体にとっての最大のタブーである――形に戻るだろう。『カリガリ博士』でジェーンが誘拐された夜、箱の中にずっといたと思われていたチェザーレが、実はダミーの人形だったとわかるシーンがある。巧みに表の筋と関連づけられているが、これは伊達に人形とすり替えられる訳ではなく、むしろチェザーレが本質的に人形であることを表わしていよう。

『カリガリ博士』には、『砂男』のモチーフと、『ジキル博士とハイド氏』から採られたモチーフが、巧みに組み合わされている。前者から由来するものは二つあり、一つは主体によって否認された結果、“人形”として外在化、物質化された「父に対する女性的態度」、そしてもう一つは、伝承のキャラクターに投影された、人形を弄ぶ「悪い父」だ。フランシスが院長をカリガリだと思うのは、幼い頃、子供の眼をえぐり出す「砂男」だと信じていた恐しいコッペリウスが、眼鏡売りコッポラとして再来したとナタナエルが思うようなものである[☆8]。『砂男』では女の自動人形だったオリンピアが、『カリガリ』では青年の生き人形になっている。実はそれこそがオリンピアの正体なのだが。ナタナエルの幼年時のトラウマになったコッペリウスは、覗き見していた子供の眼に、「焔のなかから真っ赤に燃えた砂粒をつかみ出して」投げ入れようとした。ナタナエルの父の懇願によって眼だけは容赦した代り、彼はナタナエルの「肉体をがっきと鷲づかみにし、手足をねじ切ってそれをまたあちこち嵌め換え」た。要するに少年は人形として扱われたのである[☆9]。

スパランツァーニ教授の娘、実は自動人形オリンピアのガラスの目玉は、眼鏡売りコッポラが提供したものだった。二人は、かつていまわしいプロジェクトに携わっていたナタナエルの父とコッペリウスの反復である。カリガリ博士に連れられたチェザーレとは、スパランツァーニ教授に伴われたオリンピアであろう。スパランツァーニの娘ではなく息子としての自動人形。オリンピアが女であるのは文字通り形ばかりのことである。

『砂男』と『ジキル博士とハイド氏』を、ともに『カリガリ博士』の発想源と仮定するとき、両者に共通するのが“分身”のモチーフであることはたやすく見てとれよう。すでに述べたように『砂男』では、分身とは「〈父〉に愛される受動的な存在としての、主人公の分身」である。後者の場合は、少々複雑だ。表面上の筋では、院長=ジキル、カリガリ=ハイドのようだが、実は『カリガリ博士』においては、フランシスとチェザーレの分身関係こそが本質的であろうと思われるからだ。この場合、分身とは、「犯罪の実行者でないかと疑われる、主人公の分身」となる。つまり、チェザーレは、「犯罪の実行者」と「受動的な存在」を一人で受け持っている訳だ。

荒俣宏の『ホラー小説講義』には、種村季弘のいわゆる野獣による美女掠奪のテーマを思いきりエグく発展させたパルプ雑誌の表紙絵の数々が載っている。これだけまとめて見せられると、想像しうるかぎりの醜悪さ(と滑稽さ)をもって描かれた怪物(というより化け者。動物もいるし、ゾンビやミイラ男もいれば、修道僧、食人植物、怪しい中国人やマッド・サイエンティストもいる)たちが囚われの美女にさまざまに強要しているものが、単なる異性間性交の置き換えとはとても思えなくなってくる。何かされそうな気配に脅える客体として提示された彼女たちが、性別を越えた受動性の化身であることは誰にでもわかるだろう。荒俣は面白いことを言っている。「巨大な獣の手に掴まれた美女。/――このイメージにこそ、恐怖のあらゆる要素がたたみこまれている。わたしたちの心は、絶叫するだけしか身をまもる手段のない弱々しい美女にすぎない。恐怖は、ときに猛々しい野獣として、ときに甘美な性の誘いとして、さらに人知れず空気感染していく疫病としてわたしたちを掴みとめる。」  そして「ときに」は、「猛々しい野獣」は同時に「甘美な誘い」でもあるだろう――すでに触れたストーカーの短篇「ドラキュラの客」の場合がまさしくそれで、そのとき犠牲者は「がっきと鷲づかみに」された子供さながら、絶対的な力に蹂躙されており(「ドラキュラの客」の主人公は「まるで巨人の手でがっしりと捕えられたかんじで」とか、「私はまたもや巨人に掴まれ、引きずられていくような気がした」[桂千穂訳]と語る)、しかも、「神秘的な形の庇護の下に」身を置いているとも感じている。「ドラキュラの客」はほとんど合理的に説明のつく話ではない。むろん、死後も生き続ける“不死者”を扱っているからというのではなく――実際、この主題はまだ明確に表われてはいない――「ミュンヘンを馬車で出発したとき、太陽は空にキラキラ輝き、大気は初夏の喜びにあふれていた」という書き出しが、数ページ後には「いまや雪はふかぶかとふりつもり、私のまわりに勢いよく渦巻いているので、ほとんど目をあけていられない」となる気候の激変、それ以前に馬車を返してしまうこと、馭者が降りて行くのを拒んだ谷間へ下って「何時間もそのあたりを時間とか距離の観念を忘れてさまよっていた」ことなど、ほとんど夢の中の出来事であり、語り手自身が「肉体的な悪夢」と呼ぶ、「全世界があたかも眠り込んでいるか、死んでいるかのように思える、空漠とした静寂」の中での、「私の上に横たわり、私の喉をなめている」獣との遭遇を実現させるための口実としか思えないからだ。ジョナサン・ハーカーのエロティックな受動性の夢は、刊行された『ドラキュラ』では、ドラキュラの城で女吸血鬼たちが彼にキスしかけた(これは婉曲な言い方)のに、激怒して割って入った老伯爵が、「この男は私のものだ」と宣言する場面にかろうじて残っている。「われは傷口にしてナイフ、犠牲者であり死刑執行人」(ボードレール)。「犯罪の実行者」は同時に「受動的な存在」でもあり、前者は「ときに」後者の夢想に他ならない[☆10]。

キャビネットの中の“悪徳”

『ジキル博士とハイド氏』の、明言されないハイドの悪徳が同性愛と考えられることはすでに述べたが、ショウォールターはジキルの友人で弁護士のアタスンについて、彼が「ハイドの謎の虜になったのは、おそらく自分自身の生活が抑圧と空想にどっぷりと浸かっていたためであろう」と言う。アタスンはジキルと(最初は彼の囲い者かと疑われた)ハイドの謎を追及し、最後にはジキルの執事プールと二人で、ジキルの書斎のドアを破って侵入することで、ジキルに戻れなくなっていたハイドを結果的に自殺に追い込む。ショウォールターに言わせると、アタスンは自らを厳しく律し、「空想的なものに怯え、無秩序な想像力の領域を怖れている」。しかし、それゆえ彼は、「顏のない人影がジキルが眠っているドアへ続くドアを開け、ベッドのカーテンを寄せ、ジキルを起き上がらせて彼の意のままにするレイプ幻想を見るようになる」のである。

杖と斧でドアを破ってジキルの書斎に入ったアタスンとプールは、直前に服毒自殺を遂げたハイドとキャビネットの中の姿見を発見する。ショウォールターは、姿見が見つかったことは彼らにとってそこにハイドがいたことに匹敵するショッキングな事実であり、「鏡は、ジキルのスキャンダラスにも男にあるまじきナルシシズムを明らかにするばかりでなく、同性愛を扱った文学において鏡を強迫的な象徴としてきた、仮面と「他者」の意味をも明らかにしている」と述べている。彼女によれば、アタスンはこの時、「彼自身の鏡に映った顏を、杖と斧でも粉砕できない酷く抑圧された欲望のイメージを見る」のである。「分身」の表向きの犯罪(殺人)を追求することが、キャビネットの中の秘密を暴き出す。カリガリ博士のキャビネット(ないしクローゼット)に隠されていた秘密もまたこの種のものであったと思われる(院長を追いつめたと信じて院長室に入ってきたフランシスの台詞は、(B)では「仮面を外せ、カリガリ博士」だ)。フランシスと医師たちが院長室を捜索するのは、アタスンとプールがジキルの部屋に押し入るのに相当し、そこで見つけるもの(まさにキャビネットの中から取り出される)は、アタスンがジキルの部屋で発見する遺書や、それに従って開封することになる書類と同様、秘密の告白である手記なのである。

ジキルとハイドをめぐる話は、カリガリとチェザーレの話とは違って(フィクションの水準では)紛れもない事実であるが、それをアタスンの妄想に変えた結果が、いわばフランシスというキャラクターであると言えよう。いや、『ジキル博士とハイド氏』にあっても、犯人の“悪徳”とは探偵の願望の投影に他ならなかった――事実であり、しかも投影なのだ。『ジキル博士とハイド氏』の長年にわたる映画化、TVドラマ化のうち、ただの一つも「この話をスティーヴンソンが書いたとおりに――つまり、男同士の関係についての物語として描いたものはないのである」とショウォールターは言うが、『ジキル博士とハイド氏』の変形としての『カリガリ博士』は、それを実現しているのではないか? しかし、『カリガリ博士』と『ジキル博士とハイド氏』には大きな違いがある。後者では、あえてその名を言わぬ秘密は、ひたすらおぞましく、忌避されるべき、破滅と死を招く(実際、秘密を知ったラニョン博士は死に至っている)何ものかであった。ハイドに対して人々が理屈抜きの嫌悪と恐怖を示すことにそれは象徴されている。“悪徳”は明かされないものの、書斎の中で見つかったハイドの醜い死体として人目にさらされることになる。
 だが、『カリガリ博士』では、扉の向うにいるのはハイドではなく、箱に入れられた美青年であり、フランシスの分身にしてカリガリの愛の対象である。

今や、「チェザーレ」の担う核心的な意味が、能動的な殺人者もしくは誘拐者としてのそれではなく、カリガリ博士に愛される、受動的、女性的な存在であることであるのは明らかであろう。ハイド氏の見かけ上の能動性、攻撃性にも、実は本質的な受動性、女性性が隠れていた。ゲイル・マーシャルは、男性的で暴力的に見えるハイドが、身体が小さい、神経質、ヒステリー発作を起こすといった、通常「女性的」と見なされる特質を示していることを指摘している。『宝島』とH・R・ハガードの『ソロモン王の宝窟』について論じながらマーシャルは、このような男性的な物語によって抑圧されたものの回帰こそハイドであると、『ジキル博士とハイド氏』は、「ジキルの、抑圧された先祖返り的性本能、女性化された本能の、ハイドというペルソナへの回帰」の探求であると述べる(“Victorian Fiction”)。言うまでもなく「女性性」とは女性に固有のものではなく、男が男になるために排除したもののことだ。恐らくハイドとは、ヘンリー・ジキルの肉体における女性性の抑えのきかない表出なのであろう。

しかし、父に愛される彼自身が少女人形の姿で現われたナタナエルと違い、ジキルの(否定された)女性性は、忌まわしく、病的なハイドに体現される。ジキルにとってハイドとは、父に認められない(ゆえに)醜い自分なのだ。彼は本物の父がいなくなった後に、父に代わって自分自身の父になっており、この父にハイドが息子として(あるいは息子がハイドとして)反抗しているのである。しかし、ジキルは父の価値観を内面化しており、父によって悪とされたものを自分の一部と認めることはけっしてできない。ハイド(になった時のジキル)は父から受け継いだ蔵書に冒涜の言葉を書き込み、父の手紙を焼き、父の肖像を傷つけている。ジキルの回想の中で、幼い彼は父と手をつないで歩いているが、ショウォールターに言わせると、これはジキルが「父権社会の規範と抑制を表わす」父の右手right hand、 すなわち「正しい手」を受け継いだことを意味する(「ハイドはまるでジキルの無気味な左手のようだ」と彼女は言う)。しかしジキルは現実には父になった訳ではなく、妻もなく、『ジキル博士とハイド氏』のロンドンは、〈愛〉のない独身者たちが秘密と抑圧を抱えて互いを訪問しあう灰色の世界なのである。

一方、ナタナエルやフランシスの場合、彼らが〈男〉になるために自らに禁じた、父(同性)から受動的に愛されたいという抑圧された願望は、自己の外に物質化され、二重人格ではなく二重身(しかし、瓜二つのドッペルゲンガーではないので、見たところそれと知られない)の形を取った。カリガリ博士が一人でいる時、チェザーレを愛撫しているというのは、(アタスンのそれにも似た)フランシスの妄想であり、欲望をチェザーレという人形に投射することではじめて見ることができた夢なのだ。その証拠に、拘束され、隔離室に入れられたフランシスは、彼がカリガリと信じている院長からチェザーレと同じように“愛撫”されると、穏やかな表情になって眠ってしまう。幼いナタナエルでさえ、最悪の瞬間には、炉にかがみ込んだ父親が「悪魔の顏」になり、いやらしい「コッペリウスそっくり」になったのを見たものだ。自らが「チェザーレ」であることを否認している時のフランシスは、院長を「カリガリ! カリガリ! カリガリ!」と呼んで糾弾し、あまっさえその首を締め上げようとした。フロイトによれば、ナタナエルは悪しき父コッペリウスの死を願うが、彼の場合、それは「コッペリウスのせいで死ぬ良い父親として実現されて」しまったのである。

ナタナエルの思い出の中の父は「パイプをくゆらしながら大きなグラスでビールを飲」み、「いろいろ不思議な物語を話してくれた」し、その際、パイプの火が消えてしまうと、「ぼくが火のついた紙を差し出してまた火をつけてやらなければならなかった」。結局のところ、「悪い父」に「肉体をがっきと鷲づかみに」され、受け身に蹂躙された記憶は、「不思議な物語」で頭をいっぱいにしたナタナエルの想像の産物(フランシスの妄想のような)であったのだろう。焔の上に身をかがめて怪しげな作業にふける父は、コッペリウスであったのだろう(院長がカリガリであるとフランシスが発見したように)。恐しいコッペリウスと愛してくれた父はついに統合されず、ナタナエルは悲劇的な最期を遂げるが、フランシスの場合は、「良い父」すなわち良い砂男の下で、彼は反抗を止め安らかな眠りを与えられた。彼はついに、自らがそうであることを否認し、そうなることを恐れていた、そして何よりもそうなりたいと思っていた「チェザーレ」になったのだ。

カリガリ博士の“罪”

それでは「カリガリ」とは何であるのか。すでに述べたように、「カリガリ博士」の(作中での)出典ははっきりしている。精神病院の院長と見世物小屋の香具師が同一人であることが発見された後、院長が別棟で眠っている間に、フランシスと彼に説得された医師たちは院長室の捜索をするが、そこで見つけた古い書物にカリガリについての記述が見つかる。このシークェンスは、眠る院長の映像が挿入されることで、それ自体が院長の悪夢のような印象を与える。実際、このあたりに(これ以前から)通常のリアリティはもはやない。医師たちの協力が得られるというのはありそうにないことだし、時間経過も不明である(これはいつ行なわれている捜索なのか?) いや、箱の中のチェザーレが人形と判明してカリガリが逃げ出した時、警官たちもその場にいたのに、カリガリを追って精神病院にたどり着いたのがフランシスだけというのがすでにおかしい。本と日記が院長の正体を明らかにしたちょうどその時、眠り男が谷底で死んでいたという報せが届いて、フランシスと医師たちは現場へ向かう。しかし、これは不可能な展開である。チェザーレを追跡した人々がフランシスの居場所を知るはずはないので、そもそもチェザーレの死体発見の報せがそこに届くなどということはありえない。

フランシスのケースは、フロイトが記述している、同性愛に対する男性の防衛機制の一つに酷似している。パラノイア患者とされた元判事シュレーバーの手記を検討したフロイトは、「私は彼を愛している」という文が、抑圧の結果、「私は彼を愛していない――私は彼を憎んでいる――私が彼を憎むのは彼が私を迫害しているからだ」と変形されて、自分が入院している精神病院の院長シュレヒジッヒ博士から迫害されているというパラノイアックな妄想を患者が抱くことになったと解釈した(『著作集』9)。しかも、その迫害とは、自分の身体が〈神〉=シュレヒジッヒによって女性化されている――〈神〉によって女にされ、愛人にされてしまう――というものだったのである[☆11]。

件の本を開くと、「夢遊病者」というタイトルや、「ウプサラ大学 1726年」という出版元や出版年の表示が見える。医者の一人が「これは院長の特別研究だ」と言う中、フランシスは次々とページを繰る。「The Cabinet of Dr.Caligari」という章が現われ、すでに述べたようなカリガリとチェザーレについての文章が読み取れる。さらに院長の日記――(A)では「臨床記録」――が発見されると、待ち望んだ夢遊病者をついに病院に迎えた日のことが記されており、院長の喜びのさま(日記の内容)が映像として示される。

本で読んだ「カリガリ博士」の話に魅了された院長が、夢遊病の患者を手に入れ、市に見世物小屋を出してカリガリ博士になりきって連続殺人を行なっていたというのが、フランシスの妄想の表の筋である(チェザーレを迎えて喜ぶ院長の映像とは、言うまでもなくフランシスの空想だ)。この時はじめて見つけたように描かれているが、すでに知っていた物語を院長に投影したというのが、本来の順序であろう。「カリガリ博士」なる人物はフランシス以外の人々にも伝説として知られている――生きた人間としては実在しなくても外部の情報としては存在する。つまり、作品内の現実世界では、「カリガリ博士」とは「砂男」のようなもの、つまり、誰でも知っている伝承のキャラクターであるようだ。だからこそ院長は、「彼は私を伝説のカリガリ博士だと思っている。これで彼を治せることがわかった」と断言しえたのである。

しかし、院長の知っているカリガリとは、夢遊病者を使った連続殺人犯であり、それ以上のものではない。なぜなら、院長は、私たちと一緒にフランシスの回想としての映画を見てきた訳ではないからだ。「院長はカリガリ博士だ」とフランシスが叫ぶ時、彼は、院長は“カリガリ博士の罪”を犯していると言っている訳だが、その罪とは何であろう。殺人とは表向きのそれに過ぎず、カリガリの隠された――いや、実のところ隠されてなどいないのだが――罪はすでに見た通りである。院長はまだ知らないが、「彼がカリガリだ」とフランシスが言う時、その妄想の中での“カリガリ博士の罪”とは、男の患者を受動的な存在として“愛する”ことなのである。

ところで、院長は本当に「知らない」のだろうか。知っている――それも、観客以上に――のではないか? イタリアが舞台であることの意味については註3でも触れたが、書物の中に見出される原カリガリとチェザーレの旅する世界は、フランシスを惹きつける「オリエント性」をそなえているのであろう。彼が妄想の中で見出した本として私たちに提示されるものは、自己検閲されている(彼自身に対して、また実際の検閲に対して)のではあるまいか。歴史上のカリガリは貴種流離譚の主人公で、修道僧くずれの医師、錬金術師、魔術師であり(ちょっとユルスナルの小説の主人公のようだ)、ゴシック・ロマンス的背景を持つ、今は見世物で日銭を稼ぐ流れ者だが、夢遊病者と称する若者を伴侶としており、男色を疑われた――くらいの設定が少なくともあったのではないか(そうであればこそ、院長は確信を持ってフランシスの妄想を見抜けたと断言できたのではないか)。もしそうなら、院長から観客へ向けられる眼差しは、そのような「削除部分」をも含めて読み取れと要請していると言えよう。

長尺版(B)で、フランシスは医師たちに「あんたたちは僕を狂人だと思っているだろうが、本当の狂人は院長なのだ」と主張する。

院長=カリガリ博士
院長=狂人

フランシスはそう言っている訳だが、彼にとって「カリガリ博士」とは「“カリガリ博士の罪”を犯している者」のことなのだから、これは要するに、彼が「狂人」と呼んでいるのは、通常そう呼ばれている者のことではなくて、「“カリガリ博士の罪”を犯している者」だということだ。フランシスは、「“カリガリ博士の罪”を犯している者は自分ではない、院長だ」と訴えているのである。
「あんたたちは僕を狂人だと思っているだろうが、本当の狂人は院長なのだ」というフランシスの台詞はそのまま、「あんたたちは僕を同性愛者だと思っているだろうが、本当の同性愛者は院長なのだ」と読みかえられる。そうであれば、この映画で(少なくともフランシスの妄想の中で)病気ないし狂気とされている者とは同性愛者であり、狂気とはその言いかえであるということになる。
 フランシスが知らなかったのは、彼の妄想の中で「本当の狂人は院長」であったとしても、彼もまた「狂人」だったということだ。彼はそれをどのように抑圧したのか。その事情は彼の夢=妄想に隠されて/表われている。そこにうかがわれる「実際に起こった事件」について、次章では映画の初めに戻って、表面にあらわれているものに注目しながら検討することにしよう。

☆1 『カリガリ博士』について、このことはかねてから誤解されてきた。オリジナル脚本は「衝撃的」だったのに、監督が枠物語に変えたためにそれが損われたかのように言われてきた。「なぜこんなふうにしたかというと、オットー・フリードリッヒによれば、はじめの物語ではあまりに時代との相似性がなまなましすぎるからで、ヴィーネはそれを避けるために、はじめの物語をそっくり狂人の話という枠組にはめこんで、この映画が時代を批判しているのだという責任を逃れたのだという」(海野弘「暗箱のなかの都市」)。しかし、こうした見方は浅薄なものであり、「はじめの物語をそっくり」「はめこんだ」というのも、「時代との相似性」も、「時代を批判」も、ジークフリート・クラカウアーが言い出したガセネタだ。オリジナル脚本が「衝撃的」だったとはとうてい考えられないことを含め、これについては後述する。「箱の中に閉じ込められているはずのツェザーレは箱を抜け出して街に出没して殺人を重ねる」(海野)――しかし、「箱」の外にあるのはなおも映画であり、それを現実の「街」と混同し、映画内での「妄想」と「現実」の関係を見ない結果が、映画が映画館の外の街を反映しておりカリガリがヒトラーにまで発展したという、クラカウアーが言い立てた目的論的でアナクロニックな認識である。

☆2 原題がDas Cabinetであってドイツ語Das Kabinettでないのは、『ワイマール映画研究』の著者田中雄次によれば、「ドイツ語が本来持っている意味のほかに、英語、フランス語が含み持つ意味も込められていると見ることができる」、つまり、チェザーレが入っている「箱」、見世物が行なわれる「掛け小屋」、部屋、診察室、戸棚等を意味しえているのだという。

☆3 「はしがき」で述べたようにこの設定には異同があるが、北イタリアであることは変わらない。なぜ、イタリアなのだろう?(脚本家の一人がカリガリというイタリア人名をスタンダールの書簡集で見つけた時はまだ偶然に過ぎなかった。)荒俣宏は、『オトラント城奇譚』以来の、英国のゴシック・ロマンスについてこう書いている。「オリエンタルを含めた異国的なものへの憧れは、早くもウォルポールの『オトラント城』にさえ潜んでいた。かれは、『オトラント城』の舞台を、イギリスではなくイタリアに求めたし、ラドクリフやマチュー・ルイスやマチューリンのゴシック小説もまた、イギリスだけの舞台に満足などしなかった」(『ホラー小説講義』強調は原著者)。マチュー・ルイスの『マンク』下巻「月報10」で、荒俣は英国へのドイツ文学紹介者、翻訳者としてのルイスについて書いているが(“「マンク」とドイツ的情熱”)、逆にホフマンの『悪魔の霊薬』は『マンク』が粉本であるという(『マンク』上巻「月報9」石川実“「マンク」とドイツ恐怖小説”による)。修道僧(マンク)という伝説のカリガリの設定は、このようなインターテクスチュアリティの結果なのかもしれない。ホフマンにとってイタリアは特別な場所であり、この映画が明らかに“粉本”にしている『砂男』後半の重要登場人物コッポラとスパランツァーニは、名前からもわかるようにイタリア人である。なお、こうした理由から、本稿ではチェザーレという名をイタリア式の読みで表記した。

☆4 「ドラキュラの客」には『書物の王国12 吸血鬼』所収の桂千穂訳(短篇集『ドラキュラの客』も国書刊行会から出ている)と、『ドラキュラ』完訳詳注版の二種の邦訳があり、引用には日本語としてこなれていると思われる桂千穂訳を使った。なお、『ドラキュラの客』の訳者あとがきには、「ドラキュラの客」は未定稿であり、『ドラキュラ』人気にあやかろうと短篇集に入れられたもので本来なら収録を見合わせられるべきものだったとあるが、私たちは本文で述べた理由から断じてこれに賛同せず、「ドラキュラの客」は「夫の最高傑作とされる作品を愛する読者の方々には、興味深く思われることでしょう」と序文に記したフロレンス・ブラム・ストーカーの心情を文字通り受け取りたいと思う。「ドラキュラの客」は文学史上にそれだけがぽつんと残されていたとしたら未定稿かもしれないが、人口に膾炙した本篇『ドラキュラ』の存在が、今では「ドラキュラの客」を余すところなく理解できるものにしており、同時に、本篇から独立した一箇の佳品たらしめている。

☆5 60年代初出のこのエッセーで、種村は「『カリガリ博士』を頂点とするドイツ表現派映画に氾濫したあやつり人形たちに、のちにジークフリート・クラカウエルがナチス胎動の影を見たのはあまりにも有名だが」云々と述べている。“クラカウエル”の名は澁澤龍彦の著作にも散見され、『カリガリ博士』のリメイクであるアメリカ映画『怪人カリガリ博士』評でも、オリジナル版への言及はジョルジュ・サドゥール経由のクラカウアーに依拠している(「カリガリ博士あるいは精神分析のイロニー」『澁澤龍彦集成』7)。澁澤が『カリガリからヒトラーへ』を実際に読んでいないのは明らかで、オリジナルの『カリガリ』自体は以前見たきりで覚えていないにしても(戦後に見たと書いている。ちなみにクラカウアーは、ウィキぺディア英語版の“The Cabinet of Dr. Caligari”の項目によれば、執筆時を遡ること二十年前に見たきりだったらしい)、サドゥールを鵜呑みにして“「この映画がニューヨークで熱狂的に迎えられた原因は、一に公式主義との妥協にあった」と[サドゥールは]述べているが、卓見というべきであろう。”などと何の疑問も抱かないのは情けない。「そもそも芸術は危険な「無意味」を志向するものであり、「有意味」に終る芸術は、人道主義のお説教にすぎないことを誰もが知っている」なぞと書いているが、映画を「お説教」にしているのはクラカウアーである。映画評自体の趣旨は、夢と神経症と芸術を現実よりも上位に置こうとするものだから、およそクラカウアーとは相容れないというか、そもそも関係がない。つまり全く噛み合っていないのだが、しかし、彼らにとっても言及(参照ではないにしても)すべき権威の位置をクラカウアーが占めていたことをうかがわせる記述ではある。

☆6 周知の通りこの小説は繰り返し映画化されているが、『カリガリ博士』が公開された1920年には、チェザーレを演じたコンラート・ファイトの主演によるF・W・ムルナウ監督作品も公開されている(現存せず)。また、ファイトは、世界で初めて明示的な同性愛者を描いたと言われる、マグヌス・ヒルシュフェルト博士肝煎りのプロパガンダ映画『他の人たちと違って』(“Anders als die Andern”)の主演者でもあるが、これも1919年の作である。『他の人たちと違って』については後述する。

☆7 『カリガリ博士』を誰が作ったかについては、必ずしも明確でない入り組んだ話がある(詳しくは第三章で扱う)。脚本家としてクレジットされた二人組による最初のシナリオはひどいもので、フリッツ・ラングが手直ししたと伝えられるが(最初に予定されていた監督もラングであった)、回想形式の枠物語に改悪されたとクラカウアーが中傷し、長いことそれが事実のように言われてきた。しかし、実際に見ればわかるとおり、これは枠物語であることをも含め、間然するところのない脚本である。観客に解決をゆだねたこの筋書きを作ったのはラングなのだろうか? 最終的にはラングに代って撮ることになったヴィーネの意向が反映されての演出だったと想像されるが、真相を知る手立てはない。いずれにしても私たちの関心は(当然のことながら)作家の無意識の秘密や創造の源にではなく、非人称の装置としての映画が今なお生産し続けている“意味”にある。

☆8 ホフマンの影響についてはつとに指摘されてきたようだ。『カリガリ博士』のオリジナル脚本をクラカウアーは「E・T・A・ホフマンの精神をうけついだこの恐怖物語」と呼ぶが、むろん書いているものを見れば何もわかっていないことは明らかだ。田中雄次は『カリガリ博士』について「夢遊病者や自動人形やドッペルゲンガーといった特異な世界を創造したロマン派の作家、とりわけホフマンの影響が認められる」と言い、『砂男』の名まで出しながら、「二重性」の例をあげようとして、「『砂男』に登場する弁護士コッペリウスと眼鏡売りのコッポラは同一人物である。砂男はあるときは子供の眼をえぐりとり、あるときは生命のない物体にすぎない眼鏡を生きた眼に変えるのである」と無意味な記述をしている。また、本国で公開された翌年に逸早く『カリガリ博士』を見た谷崎潤一郎と佐藤春夫もホフマンの名を出しており、佐藤は「話の筋は、観てゐ乍ら考へたことだが、アマデス・ホフマンの「砂売」と云ふ奴に大分似てゐる」と書いている[『佐藤春夫全集』19巻。「砂売」とは「砂男」のフランスでの呼び名]。いったいどういう点についてそう「考へた」のかは興味のあるところだ。

☆9 大人になったナタナエルが、ふたたび自分が人形でしかないのを悟った瞬間――スパランツァーニ教授にガラスの目玉を投げつけられた瞬間――その「肉体をがっきと鷲づかみに」するものは狂気である――「この瞬間、ナタナエルは狂気の灼きつくような鈎爪にがっしとばかりつかまれた」。「フイ――フイ――フイ――火の輪よ――火の輪――火の輪は回れ(...)」と言いながら、彼は教授の首を締め上げる――「カリガリ! カリガリ! カリガリ!」と叫びながらフランシスが院長の首を締めるように。「大勢がよってたかって床に転がして縛り上げ、ようやく狂人を押え込むのに成功した。(...)こうしてむごたらしい狂気のうちに暴れ回りながら彼は精神病院に運ばれて行ったのである。」フランシスが取り押えられて隔離室に入れられるのと全く同じ展開と言えよう。

☆10 『ドラキュラ』の起源であり、核心である、実際に見た夢の中の台詞だという「この男は私のものだ」という文句を、ストーカーは創作ノートに繰り返し書きつけている。ロンドンでドラキュラの標的にされる女たちは、その後、自らドラキュラに襲われることを夢見る〈女〉(=受動性の化身〉として、男性の異性愛的ファンタジーの登場人物になりはしたが、ハーカーがそうであるような夢見る主体ではない。

☆11 ダニエル・パウル・シュレーバーは、現在ではその驚くべき生育史(実の父が狂信的な教育家で現実に子供たちを「迫害する者」だった)が明らかにされ、想像を超える特異なケースであったことが知られているが、フロイトの図式自体はそれとは別に今なお有効であろう。
BACKTOPNEXT
inserted by FC2 system