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コンラッド、謎の男たち


3.分か(ち持)たれた身体――The Secret Sharer

これまで述べてきた二作に比べ、『秘密の共有者』(1909年執筆)は、より抽象度の高い、言ってみれば現代的な作品と言えよう。別に、世紀の転換期の伯爵だの、ナポレオンのロシア遠征を迎え撃ったロシア軍の挿話だのが古くさいというわけではないし、たとえ歴史的事実や風俗の知識がなくとも、私たちは記憶の中からなんとなくそれらしいイメージを取り出して、コンラッドの文章を視覚化しおおせるだろう。しかし、この短篇には、コスチューム・プレイをやめてセットも簡略にしたような趣きがある(これは比喩ではなく、実際、主人公はほぼ全篇パジャマで通している)。もちろん、帆船の操作などというものは現代ではまず見られないから、これもまた映画の記憶でも引っ張り出すしかないのだが、作者と同郷の貴族(『伯爵』のモデルの)から聞いた話だの、母方の大叔父から伝えられた戦争時の悲惨な体験談だのが小説の細部をかたちづくっているようには、コンラッドがはじめて船長として経験した航海とこの小説は関係しているわけではない。同僚を殺した船員の話は別にあるらしいが、それもまた材料の一つで、そこから抽出されたのは、『伯爵』の〈私〉や『武人の魂』の老士官のような第三者の声を介さない、直接的な一人称の語りによる、自意識の純粋なドラマである。しかし、この意識は、物語がはじまってすぐ、レガットという侵入者によってshare(一つのものを共有する/半分ずつ分かち持つ)されることになるのだから、単一で純粋な声によって唯一の真実が明らかにされるというわけでは全くない。むしろ、題名に(そして以下に)見るように、ここでは真実=秘密は、分かち持たれることでいっそう謎めいたものとなっている。

()()人魚(マーマン)

シャム湾の最奥部に停泊して風待ちをする帆船のデッキでひとり当直に立つ、船長として新米であるばかりか、急な任命のせいで船と船員たちに対してよそ者で、しかも、「自分自身にとってもいささかよそ者」(以下、引用は基本的に『コンラッド中短篇小説集3』(人文書院)小池滋訳によるが、変更を加えた部分がある)であり、「自分というものの理想の姿」に自分がどこまで一致するかまだ確信を持てないでいる若い船長が発見する、船腹に下がった縄梯子の先に浮かぶ「長く伸びた青白いもの」、「何だろうと思うより早く、人間の裸体が突然発するような燐光が、夜空を音もなく走る夏の稲妻めいて、眠っている水の中でちらちらと光」って可視化する、「二つの足、長い脛、緑がかった気味の悪い[cadaverous]燐光に首まで浸かった広い鉛色の背中」、最初「首なし死体」かと疑われた、水をかく腕が「不気味なくらい銀色で、魚のよう」に見える、「魚のように黙りこくったまま」の裸の男が、孤独な船長の欲望が形をとったものであるのは間違いない。「まるで海の底(実際、そこがこの船にいちばん近い陸地だが)から現われ出た」ように、それは彼自身の奥底から意識の水面に浮上してきたのだ。そうでなければ、おそろいの寝間着をまとい、船のなかでただ二人の“よそ者”として、「互いに全く同じ姿勢で向かい合った」相手が、「誰かと話がしたかったのです。何を話すつもりだったかもわかりません……多分『いい晩ですね』とか何とか」などと、どうして口にしたりするだろう。これはまさしく船長自身の欲望であり、語り手は、自分が言いたいと思っていたことを、他者の声でささやきかけられているのだ。「あなたが――まるで私の来るのを待ってでもいたように――とても穏やかに声をかけてくださったので、もうちょっと[梯子に]つかまっていようと思いました」とレガットが言うのは、語り手が誰かの来るのを待っていたところに彼がまさに現われたことを示すものである。

むろんそれはあとになってわかったことだ。レガットを見つけるまでは、すべては潜在意識にとどまっていた。表面的には、日が沈んで星が輝き出す以前、部下を遠ざけた〈私〉は〈私の船〉と水入らずだった――「前途に長い航海をひかえている船は、果てしない静けさのうちに浮かび、帆柱の影は夕陽を受けて東のほうに遠く伸びていた。いまデッキにいるのは私だけ。船中物音一つせず――あたりには動くもの、生きもの一つとてなく(…)私と船とはこれからの長い困難な仕事――人間の目からは遠く離れ、私たちを眺めるもの、裁くものとしては、ただ空と海しかないところで、私も船もともども生き抜かねばならぬとさだめられた仕事を、成し遂げる力が果してあるかどうか、自ら吟味しているようであった」と語られ、「まるで信頼しきった友の肩のようなつもりで、私の船の手すりの上に軽く手を置いて」いたのだから。だが、日の入りとともに「数知れぬ星が見おろしてはいたものの、船と静かに心を通わせ合う楽しさはもうすっかりなくなってしまった」。なぜなら、昼のまばゆさが翳るや否や、「群島の内海」の「島のてっぺんの向うに」マストの先がのぞいていることに、船長が気づいてしまったからである。なぜ、それだけのことが、船との調和を失わせたのか。理由は、その船、セフォーラ号から、逃亡者レガットがやがて語り手の船にまで泳ぎつくことになるからという以外に考えられない。

まるで「信頼しきった友」の肩のように、彼が手すりに手を置いていた船――それは女友達である。日本語訳には全く反映されていないが、英文では船が女であることは代名詞で確認されつづけている。引用したくだりの原文の一部を挙げる。“She floated at the starting point of a long journey, very still in an immense stillness, the shadows of her spars flung far to the eastward by the setting sun. At that moment I was alone on her decks. There was not a sound in her—(…)” 彼女はしかし、語り手とまだ馴染んでおらず(「信頼しきった友」というのも彼の側の思い入れであり)、つかのまの交流はこうして日没とともに、さらにはレガットの登場によって決定的に中断される。

レガットと差し向かいになるや、船長は「友」となるべき船のことを、全く忘れ去ってしまったかのようだ。そもそも、船長自ら五時間の当直をするなどという「異例の処置」をとったのは、「まるで独りぼっちで夜の時を過ごせば、私にとって見ず知らずの船員が乗り組んでいる見ず知らずの船と仲好くなれるとでも思っているみたいだ」と自ら言うとおり、船と馴れ親しむことが目的の一つ(むしろ第一の)であった。実際、デッキにたたずむうち、「この船とて特に他と変わった船でなし、乗組員もそうだし、海だって何か思いがけぬ出来事を一発お見舞いして、私をうろたえさせようと待ちかまえているわけでもなかろう、と自分で自分を納得させて」気が楽になっていたのだし、レガットが現われる直前には、次のような感慨が心をよぎってさえいたのだ――「突然私は嬉しくなってきた。陸の不安に比べて海がなんと平安なことか[suddenly I rejoiced in the great security of the sea as compared with the unrest of the land]――心をかき乱す問題も起こらず、訴えるものは至極まっとうで、目ざすところも単純素朴な、海という根元的でしかも倫理的な美しさを備えた、この安全な生活[that untempted life]を選んでよかった、と」

しかし、そこもまた安全な場所というわけではなかった。たとえ凪のさなかであろうと、海は平安を保証してくれたりはしない。the great security of the seaなどありはしない。海はまさしくその平安のただなかから、船長の意識の凪に乗じてその表面へ、untempted lifeなど望むべくもない、誘惑そのものを送ってよこしたのだから(まるで“ソラリスの海”である)。そして、「船長室にあのよそ者がいるのだから、私は自分の命令と一体ではなかった。というよりむしろ、私はすっかり船と一体になってはいなかった。私の一部はそこにいなかった」と、のちに語り手自身、はっきり自覚することになるように、レガットの存在は彼が「船と一体に」なることを妨げるものなのだ。風が出てきたと知らされ、レガットを船室に残して出て行かねばならなくなった時、語り手は「私は船と知り合いになるために出て行こうとしていた」と言っている。二人は目を見かわし、船長は部屋の奥のレガットの定位置を指さして自分の唇に指をあて、相手は「何かあいまいな――いささか謎めいた身振りをし、まるで残念というように、かすかに微笑んだ」

この場合は一時の別れのしるしであるが、最後に彼らが本当に別れる時、船長は「いまや、私は立ち去らんとしている秘密の他人のことはすっかり忘れて、この俺は船にとって全くの他人なんだということだけが思い出された。俺は船を知っていない。船のほうでやってくれるだろうか。うまく操縦に答えてくれるだろうか」と言っている。そして船がついに帆に風をとらえて進みはじめると、「そして私は船と一体になった。そうだ! この世の何ものといえども、私と船とをひき離すことはできない。船乗りと、彼が最初に操縦する船とが暗黙のうちに知り合い、無言のままで愛し合い、心と心が完全に通い合おうとする時に、何ものも暗影を投ずることできないのだ」と高らかに宣言するのだから、船長はレガットがいなくなってようやく彼女(ふね)とのヘテロセクシュアルな関係にシフトしえている。だから、レガットとの関係をホモセクシュアルと呼ぶことは、明示されていない(あるいは存在しない)ものをあえて読み込むことではなく、むしろ構造的な必然である。

◆幻の肉体

夜の海から上がってきたレガットは、魚か死骸かと見誤られかねなかったのみならず、亡霊のような存在でさえある。むろんコンラッドはこれを幻想小説としては書かなかったから、レガットは、貨物船セフォーラ号から逃げてきた現実の殺人者(嵐の際、適切な命令を下せない老船長に代って船を救い、これを妨害する水夫を死なせた)であり、セフォーラ号の船長の訪問はレガット(ただし会話の中に殺人犯の名前は出ない)の実在を証すものだろう。この亡霊は最初の日、船長の寝棚で熟睡するし、毎朝、船長のためのコーヒーを飲むし、レガットが船を離れて島に泳ぎついた後のために、船長が絹ハンカチに金貨をくるんで手渡すと、それを寝間着の下の素肌の腰にくくりつけるし、むき出しの頭を太陽に焼かれながら彼がさまよい歩かなくてもいいようにと、船長が最後に与える「ぺらぺらの帽子」は、「私が彼の肉体に突然感じた憐れみの表現」[the expression of my sudden pity for his mere flesh]であるのだから、船長の寝室でレガットは確かに肉体を持って存在しているのだろう。

しかし、まだ彼が縄梯子を上がってもこないうちに、「この静まりかえった真っ暗な熱帯の海を目の前にして、私たち二人はすでに奇妙に心が通い合っていた」と船長には感じられ、「彼はすぐその濡れた体を私が着ているのと同じ灰色の縞模様の寝間着で隠し、まるで私の分身みたいに私の後について船尾へとやって来た」[強調は以下、引用者による]のであり、「灰色の亡霊のような私の寝間着」を着た、船長と同じ黒髪の相手は、「夜の中で、暗い大きな鏡の底の自分の影と向かい合っているみたいだった」と、はなから通常のリアリズムは放棄されているのだから、彼が現実の人間というより船長のダブルと見なしうることは、強調され、誇示されている――むしろ読者は(最も不注意な読者でさえも)そう見なすよう、繰り返し誘われるのだ。パジャマのサイズがぴったりだったり、同じ商船学校の出であると判明したりするのは、まだ偶然と片付けられないこともなかろうが、人を殺したことについて、「まるで私たちは着ているものだけでなく、経験まで同じだと言わんばかり」に彼が訴えると、語り手は理解できると思うし、「私の分身が決して殺人鬼なんかでないこともわかっていた」と言い、「私は彼にこまごました事情を尋ねようとは思わなかったし、彼もとぎれとぎれに、その出来事のざっとのあらましを語っただけだった。私はそれ以上知りたいとは思わなかった。私がもう一着の寝間着を着たもう一人の自分であるかのように、事件のなりゆきが私にはよくわかったからだ」と、彼らはたちまち驚くべき相互(?)理解に達してしまうのだ。

もしも一等航海士にそうしているところを見られたら、「きっと彼は、俺は物が二つに見えるのかなとかあるいは、変てこな船長が自分の灰色の幽霊と舵輪のそばで話しあってるとは、こりゃ気味の悪い魔法の現場に出くわしたかな、と思ったことだろう」と心配になり(一番普通にありそうなこと、つまり、見知らぬ誰かと話しているところを見つかるのではという心配ではなく)、「君はすぐ私の個室に隠れたほうがいいな」と言って船長が歩き出すと、「私の分身もついて来」る。「実際は彼は私に全然似ていなかった」と船長は言う。

だが、私たちが寝台の上にかがみ込み、並んでささやきあい、共に黒い髪の頭を寄せあい、共に背中を戸口のほうに向けて立っているところへ、誰かが大胆に扉をそっと開けたとしたならば、二人になった船長の一人が、もう一人の自分と忙しくささやきを交しているという、気味の悪い光景をまのあたりに見たことであろう。

そうだろうか。容易に予想のつくことだが、レガットの姿はついに船長以外の誰にも見られることなく終る。レガットが横たわり、片腕を目の上にあてがい、「こんなふうに顔をほとんど隠してしまうと、私がその寝台に寝ているのとそっくりだったに違いない。しばらくの間私はもう一人の自分を見つめてから、真鍮の棒から下がっている二枚の緑色のカーテンを注意深く引いた」。寝椅子で眠り込んだ船長に朝のコーヒーを運んできた給仕は、引かれたカーテンを見ただけだが、その向うにレガットがいると知っている船長は、自分が同時に二箇所にいると感じている。食事の時も、「食卓の上座に坐っていると、真正面に見えるあの扉の向こうの寝台に寝ている私自身の姿――私の人格ばかりか、私の行動次第でどうにでもなるもう一人の秘密の私の姿が絶えず目についた」。ゆり起こして浴室に入るように言うと、「彼は幽霊のように、物音一つ立てずに消えた」。〈私〉は給仕を呼び、部屋の掃除を命じておいて風呂に入る。「その間じゅう、ひそかに私と生命を共有する男はその狭い場所に直立不動で立っていた。昼の光で見ると、彼の顔はひどくやせこけていて、かすかに寄せたいかつい、濃い眉毛の下に、瞼が垂れ下がっていた」

こうした描写は、船長につきまとう幻――つまりは彼の幻覚で、他の人間には見えない存在でレガットがあっても不思議はない、という印象を、絶えず読者に与えるものだ。L字形をしているため、都合よく奥まで見通せない部屋で、レガットは壁に何枚も吊り下げられた衣類の蔭で折畳み椅子に掛けており、〈私〉は机に向かいながら、「私の背後の戸口から見えないところに」いる「分身」を意識している。「ときどき肩越しにちらとふり返ると、ずっと奥のほうに彼の姿が見えた――低い椅子の上でじっと身をかたくし、はだしの足を揃え、腕を組み、頭を垂れ、身動きひとつせずに坐っていた。誰だって私だと思うだろう」。こうしてほとんど魅せられたようにレガットを見つめ、「しょっちゅう肩越しにふり向かないではいられなく」なっている時に、ボートの接近が知らされて、彼はセフォーラ号の老船長(アーチボルドとかいう名の)の訪問を受ける。船長は礼儀正しく客人に視線を向けて話をするが、壁一つ隔てた向うにはがいる。

私が本当に見ていたのはもう一人の男だった。灰色の寝間着を着て、はだしの足を揃え、腕を組み、黒い髪の頭を垂れて、低い腰掛けに坐り、私たちの言葉を一言洩らさず聞いているあの男だ

語り手はレガットにあまりにも同一化しているため、言外にレガットのために弁明し、相手が「奴はセフォーラ号みたいな船の一等航海士にふさわしい男でなかったのですな」と言っただけで、「もう既に私は、ひそかに私と船室を共有するあの男としっかり一体となって、考えたり感じたりしていたものだから、自分自身が、セフォーラ号みたいな船の一等航海士にふさわしい男ではないぞと、面と向かって申し渡されたような気が」する始末だ。レガットのことを単刀直入に訊かれたら平気でしらを切れる自信のない語り手の船長は、自分から船室の中を見せることさえして(「彼は私の後から入ってきてあたりを見廻した。利口な私の分身は消えていた。私はまんまとやりおおせたのだ」)、セフォーラ号の船長を送り出す。うまく行ったのは、アーチボルド船長が「私を見て何か自分の探している男のことを思い出し、自分がはじめから疑い、嫌っていた若造にどこか奇妙に似てやしないかという気がして、少なからずうろたえた」からだろうと語り手は「後になってやっと思いつく」が、これは限りなく妄想に近い。

◆closure/closet

分身を船室に残してデッキにいるのが、船長には苦痛になってくる。船長室にいても苦しいのは同じだが、「しかし、全体として彼といる時のほうが、二つに引き裂かれた感じがしなかった」。風が出て、「はじめて足の下で彼女(ふね)が自分だけの命令で動き出し」ても、「船長室にあのよそ者がいるのだから(…)私はすっかりと一体になってはいなかった。私の一部はそこにいなかった。二つの場所に同時にいるという感じが、身体的にも影響した。まるで秘密を持っているという気分が、私の魂にまで染みとおってしまったかのようだった」。そのため船長は、一等航海士の耳にそっとささやきかけそうになったり、羅針盤を見るのに忍び寄ってしまって舵手を驚かせたりする。さらには、そこにいない自分をいちいち船長室から連れ戻さなければならないので、とっさの判断が難しくなる。あの船長はおかしいと船員たちが思っているのは明らかだ。「おまけに怪談話まで出た」――というのは、船長室から物音がするのを聞いたばかりの給仕が、後ろから船長に声をかけられて飛び上がったのであるが、これは皮肉にも、レガットが幽霊ではなく、船長以外の人間にも感知可能な実在であることを読者に確認させる。

私のすすめに従って、彼はほとんどいつも浴室に居続けだった。そこがだいたいいちばん安全な場所であった。いったん給仕の掃除が済めば、どんな口実にもせよ、誰もそこへ入り込むことはできない。極めて狭い場所だった。肘を枕にして、脚を曲げ、床に寝転がっているときもあった。灰色の寝間着を着て、黒い髪を短く刈っているので、まるで平然とした、我慢強い囚人みたいに、折畳み椅子に坐っている姿を見かけるときもあった。夜になると、私は彼を寝台にこっそり連れ込み、いっしょに小声で話したものだった。

この閉じこもりは、消灯後の寄宿舎での声をひそめての、中学生のお喋り(小説か映画で知った)を思い起こさせるものだ。もっとも、舎監が点検に来たり、羽根枕を投げ合ったりはしないが。船長室のロッカーの中の罐詰の貯えを、船長はレガットに与える。

堅パンはいつでも手に入れられた。だから彼は鶏のシチューとか、鵞鳥の肝臓のパイとか、アスパラガスとか、牡蠣とか、いわしなど――ありとあらゆる罐詰のまやかしの珍味をあれこれと食べて暮らしたのである。

こうしたこまごまとした記述が連想させるのは、ロビンソン・クルーソーが粘土をこねて作る素焼きの器や、混ざっていた砂のせいで釉薬をかけたように見えるつややかな陶器や、苦労して収穫したわずかな小麦とそれを挽いて作った貴重なパンといった同種の細部(もっとずっと詳しいが)、そしてそれを読みながら企まれた、家具を馬車や馬に見立てての室内旅行、絨毯の上での水泳、幻の食料を食べるふりをする、子供部屋から一歩も出ないままの無人島生活ではなかろうか。大人になっており、食料が現実に存在するここでは、それはちょっとした屋内でのピクニックだ。先へ行ってレガットが「できるだけ早く、カンボジヤ海岸沖合の島に私を棄てていかなくちゃいけません」と言い出すと、船長は「島に棄てるって! これは少年冒険小説じゃないんだよ」と抗議し、「もちろんそうです。少年小説じゃありません」とレガットは答えるが、実際のところ、これは少年冒険小説なのである

逆転させた物言いで人を驚かすことが好きだったロラン・バルトは、「驚異の旅」の作者ジュール・ヴェルヌは実は旅を書いたのではない、ブルジョワ的閉じこもりを書いたのだと言ったが、この小説の分身との同居は、紛れもなくそうした閉じこもりである。船は旅立ちの象徴かもしれないが、より深層のレヴェルでは閉域の象徴であり、人を船旅に誘うものは完全に閉じこもる喜びなのだとバルトは説く。外へ(この場合は、無風状態のせいで閉じ込められた湾の最奥部から外界へ)向かっているように見えながら、実はどこまでも内へ向かう情熱。小屋、テント、洞窟、樹上の家(秘密基地?)のたぐいに対する子供っぽい惑溺。閉所に引きこもり、自分だけの夢想に浸ること。バルトに言わせると、こうした閉じこもりこそが、幼年期とヴェルヌに共通する本質である。船とは「完全な閉じこもり、できるだけ多くの品物を手元に置くことの喜び、絶対的に限定された空間を所有することの喜び」の象徴だ。内部は暖かく、限定され、外では嵐(無限)が吹き荒れている(バルトがこの閉じこもりを愛していることは間違いない)。

もっとも、われらが船長の場合、ノーチラス号の大がかりな旅と違って、禁欲的な独身者(シングル)の部屋での、分身(ダブル)とのほんの数日間のトリップであるが。(ハンス・へニー・ヤーンの短篇にもこんな船長がいた。嵐のなかで鉤が腹に刺さった水夫を船長室に運び入れ、自分のベッドに寝かせて手術をほどこし、全快するまでとどめ置き、そして元の持ち場に返した。彼は、特に美しいわけではない、麻酔で意識を失った白い身体を、時々夢のように思い出すことはあっても、けっして認識に至ることはなく、船に安全に守られて、子供時代と変わらず夢想に耽るのである。)

いつものように彼は舷窓から外を見つめていた。時折り風が吹き込んで顔に当たった。船はドックに入っているみたいだった。それほど穏やかに、水平にすべっていた。船が進んでも水音一つたたず、影のごとくしんとしずまりかえって、まるで幻の海のようだった。

これはレガットが去る前の日の描写だが、外界はあたかも夢想の結果としてそこに存在するかのようだ。だが、船長自身が言うように「これがいつまでも続くはずはない」。レガットは暗い海へ泳ぎ出し、船長は船を操って湾の外へ出なければならない。

ノーチラス号の舷窓から見える生物を、ヴェルヌは博物図鑑から引き写して書いた。かの潜水艦は世界中を回ろうと、何一つ未知のものは見出さなかったはずである。コンラッドのように経験豊かな元船長なら、そんなことはなかっただろうか? 『青春』(1898年執筆)ではじめて東洋(ジャワ)にたどりついたマーロウ(コンラッドの小説に繰り返し登場する語り手)は、「空にむかって静かに立つ」棕櫚の葉を、「ずっしりと重い金属で鋳られた葉っぱのようにきららかに静かに垂れ下がっている大きな葉」のあいだにのぞく茶色の屋根を、桟橋を埋めた、その動きが波のように端から端へと伝わってゆく、とりどりの色の膚を持つ人々を、「ひろびろとした湾、輝く砂浜、はてしない、変化にとんだ豊かな緑、夢のなかの海のように青い海、もの珍しげな顔の群集、燃えるように鮮やかな色彩――そのすべてを映し出す水、岸辺のゆるやかな曲線、桟橋、静かに浮かんでいる船尾の高い、異国風の船」(土岐恒二訳)を見るが、それらは「あの昔の航海者たちの憧れた東洋」、「太古さながら神秘に満ちた、きららかで陰鬱な、生気にあふれつねに変わらぬ、危険と期待に満ちた東洋」であり、マーロウが、そしてコンラッド自身が、東洋はおろか、まだ海さえ知らなかった頃から知っていた――たとえばボードレールの「髪」や「異邦の薫り」や「前世」の中に潜んでいた――ものではなかったか?

『秘密の共有者』のはじめの方に、一等航海士が自室のインク壺の海に溺れ死んだ「哀れな蠍」を見つける挿話が出てくるが、この短篇自体、コンラッドの現実の航海からというよりも、「地図と版画が大好きな子供」(ボードレール)の欲望に端を発する、一つのインク壺からそっくり出てきたものではないだろうか?

『武人の魂』のトマソフの場合、変則的な(ないし偽装された)三角関係の下で、外部では刻々と戦争が近づく中、女の私室に匿われて夢を見ていたが、船長がその分身と閉じこもる部屋は、言ってみれば、(『武人の魂』では必要だった)現実の女――口実としての異性愛関係――を排除した、船という女のL字形の胎内である。この部屋を〈クローゼット〉と呼ぶことができよう。船長が秘密そのものであり秘密を分かち合いもする男をそこに隠すからばかりではない。実際、室内には、「着物が数着、厚いジャケツが一、二着、帽子、防水着などが、かぎ型の針にぶら下がったりしていた」と最初に紹介されており、船長が部屋に戻ってきた時、誰かの足音を聞きつけて身を隠していたレガットが「そっと出てくる」のは、「奥まったほうにぶら下がっている着物の後から」である。「灰色の寝間着」にはじまって、最後の「ぺらぺらの帽子」に至るまで、衣服は一貫してレガットの換喩である。

衣類をめぐっては、間一髪の事件も起こる。にわか雨で濡れた上衣を船長が手すりにかけておいたのを、給仕が持って船長室へ入ろうとしたのだ。船長は給仕を怒鳴りつけ、レガットに急を知らせるとともに、「すっかりびくびくしてしまって、声を抑えることも、内心の動揺を隠すこともできず」、一緒に夕食のテーブルについていた二人の航海士に、船長はおかしいという確信を深めさせることになる。上衣を室内に掛けてすぐに出てくるだろうと思った給仕は、しかしいっこうに現われない。

突然私は奴がどういう理由からか知らないが、浴室の扉を開けようとしているのに気づいた(それがはっきり聞こえたのである)。もうおしまいだ。浴室は人間一人がやっとなのだ。私の声は咽喉にひっかかり、体じゅうが固くなった。

給仕が出て来ると、船長は、助かった! でも、レガットは行ってしまったのだと思う。

私の分身は現われた時のように、ふっと消えてしまったのか。だが、現われた時の説明はつくけれど、消えたのは説明がつくまい……私はゆっくりと暗い私室に入り、扉をしめ、ランプをつけてから、しばらくの間ふり向く勇気が出なかった。やっとふり向くと、彼が奥まったところに直立不動で立っているのが見えた。

この瞬間、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』で、家庭教師が見ているものが他の登場人物には見えていなことに読者が気づく瞬間のように、誰もが抱くであろう疑問と戦慄が船長をもとらえる。 「彼は肉体を持った存在なのかという逆らえない疑いが私の心を貫いた」 「ひょっとすると私以外の目には見えないのだろうか」 「幽霊にとりつかれたみたいだ」

しかし、レガットは存在しているのである。給仕が入ってきた時、彼はとっさに浴槽の中に身を隠し、給仕は浴室に腕だけを入れて上着をかけたのだった。手で船長に合図することで、レガットは狂気から彼を引き戻す。気分が悪いから真夜中まで起こすなと航海士に命じて引きこもった寝室で、彼らは再びしのびやかに語り合う。レガットは船から島に向かって泳ぎ出ると言い、船長はためらうが、ついに翌日の晩にそうするという了解に達し、それは次のような美しい言葉で語られる。

「理解されているって思えればいいんです」と彼はささやいた。「もちろん理解してくれてますよね。理解してくれる人を得られて心から満足しています。まるでそのつもりであなたがあそこで待っていてくれたみたいだ」そして、私たち二人が話すときはいつだって他人に聞かれるのは具合が悪いかのように、相変わらず囁き声で言いそえた。「素晴らしいこともあるものですね」

◆独身者の船出

真夜中、船長はデッキに上がり、船の向きを島のほうへ変えさせる(一等航海士は仰天する)。陸から吹く風に乗って湾を出るという口実で(レガットを行かせるという理由がなければ、そんな危険なことはやらなかった)。ふたたび夜が来ると、船長は船を、できるかぎり島に接近させる。声を聞くのも、目を見かわすのも、もうそれが最後になる時が近づく。「二人の目と目が会った。数秒が過ぎた。とうとう、お互いに見つめ合ったまま、私は手を伸ばしてランプを消した」。食料庫にいた給仕を理由をつけて上に行かせて、船長はレガットに声をかける。「次の瞬間、彼は私のそばを通り抜けた――もう一人の船長が階段のそばをそっと通り――狭い暗い廊下から……引き戸を抜けて……私たちは帆の格納室で、帆の上に四つん這いになっていた」。その先には後甲板の貨物積み込み口が、船長がそう命じたので二つ開かれている(なぜ二つなのだろう?)。暗闇の中でふと思いついて、船長は自分の帽子を脱いでレガットにかぶせようとする。

彼は私が何を思っているのか考えたらしかったが、やがて私の意図がわかり、急におとなしくなった。まさぐり合っていた二人の手と手が会い、一瞬の間しっかり握ったまま動かなかった……手と手が別れた時も、どちらも、一言も言わなかった。

次の行で、船長は「食料庫の扉のそばに静かに立って」おり、給仕が戻ってくる。だから、給仕が甲板へ駆け上がってから戻ってくるまで、船長はそこから動かなかったと、格納室の中の描写は、船長の想像、妄想、その他何でもいいが、まるきり起こらなかったことで、格納室の中にレガットなどいないと考えることもできるが、いずれにせよもはやレガットは二度と登場しない。

一等航海士が船長の腕を信用せず、パニックになりかかる中、船長が、いまだ自分と一体化していない船が動いているのを確認できたのは、海面でレガットに与えた帽子が前方へ動くのが見えて、船が後ろへ進みはじめたことの指標になったからだった。陸地に上がったレガットが太陽に頭を焼かれるのを気づかって帽子を与えたのだから、首尾よく岸にたどり着けたとしても、そこに帽子が残されているのは不吉でさえあるのだが、船長が帽子に気づいた時の、「黒い水面に白いものが。ちかちかする燐光がその下を通り過ぎた」という記述は、出会った夜、ほの暗いガラスに似た水面に青白く浮かんでいたレガットの裸体の反復であり、「かすかな燐光が、まるで夜空に稲妻が音もなく束の間のひらめきを見せるように、眠っている水面でちかちかと光った」その出現の時の再演である――だが、今回は、もうそこにいないレガットの痕跡としての――。

「ノーチラス号と酔っぱらった船」と題した短いエッセイで、ロラン・バルトがネモ船長の潜水艦の対立物としたのは、〈私〉と名告り出る〈酔っぱらった船〉であった。曳き手の手を離れてひとり河を下り、海に出て、見、夢想し、追い、泣き、語る、よるべない船、人間のいない船、まだ海を見たことがなかった(しかしボードレールは読んでいた)少年ランボーが書いた、「無限に触れる眼」と化した船である。閉域から逃れるには人間を排除して船だけにする必要があるとバルトは指摘していた。『秘密の共有者』の船長にとって、船との一体化とは女とペアになることではなかった。自らの受動性の外在化を女として回収することではなかった。船長のファンタジーはもう一人の自分との親密な閉じこもりであったが、コンラッドにとって海の上の男だけの世界が、そういう秘密とそういう冒険につながる場所(そして素材)であったことは明らかだ。ホモエロティックな東洋(オリエント)は、船長のファンタジーと通底する、そうしたイメージの集積場であった。レガットと過ごす秘密の日常ののち、彼を岸に泳ぎつかせ、船も操舵しおおせた船長は、今や船と一体化した独身者なのである。

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