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砂男、眠り男──カリガリ博士の真実

二 夢の仕事

これは勝手に捏造されたというわけではなくて、情況を実際には行なわれなかった場所に移しかえてみたり、人物たちを混ぜたり、置き換えたり、あるいは二つの別々の体験の結合としてあらわれる、という限りで偽物なのである。
フロイト「隠蔽記憶について」

アラン

『カリガリ博士』は明確な(夢と幻想が混じり合ったりしない)、かつ巧みな枠物語である。冬枯れの庭とおぼしき場所で、青年フランシスが老人と二人でベンチに腰を下ろしており、後者が焦点の合わない目を見開いたまま、「われわれを取り巻いている霊に憑かれたために、私は健康も妻子のいる家庭も失ってしまった」と話すところからフィルムははじまる。美しい若い女が小道の奥から白衣をまとった幽霊のように近づいてきて、彼らの前を通り過ぎるのを目で追いながら、「僕の婚約者だ」と青年は口走る。女は彼らには目もくれず宙を見つめて行ってしまう。
 すでにここだけで、出てきた三人がひとり残らずまともではないことが了解される演出である。もっとも、彼女と自分が経験したのは老人の話したのよりずっと恐しい出来事だと言って青年が語り出すと、観客はその内容に引き込まれて――夢見る人が夢であることを自覚しながら、いつしかそれを忘れるように――彼が「信用できない語り手」でありうることをすみやかに忘れてしまうだろう。

だからこそ、チェザーレの死体を見せられた院長が傍の医師に食ってかかって取り押えられ、拘束衣を着せられて、隔離室らしき場所に連れ込まれてベッドに寝かされ、なおも暴れるうちに扉が閉まり、扉の手前に立つフランシスをしばしキャメラが映した後、冒頭の庭に戻って、フランシスが老人に「その日から彼は狂人として鎖に繋がれたままだ」と語り終え、二人が立ち上がって場面が切り替わった直後、そこが回想に出てきた本当の精神病院の庭であることを知って私たちが受ける衝撃は大きい。回想の中では無人だった放射状の模様の広場が、今は異様な人々で一杯になっている。それぞれが抱える妄想に応じた身ぶりを繰り返す人たちの中に、フランシスの「婚約者」や、死んだはずのチェザーレがいる。チェザーレを見つけたフランシスは、彼に未来を尋ねると死ぬぞ、と言うが、チェザーレはどこか女性的な感じのする若い男で、白い花を大切そうに手にしている。「婚約者」は頭におもちゃのティアラを載き、玉座のような立派な椅子に掛けていて、フランシスが「愛してるよジェーン、いつ結婚してくれるんだい?」と話しかけても、あらぬ方向に目をそらし、「王族である私たちに勝手な真似は許されないわ」と言ったきり、ふたたび宙を凝視する。

この女性は「ジェーン」――この名前が明らかにされるのはこの時が初めてだ――でさえなかったのであり、フランシスが勝手に彼女を起用して回想シーンを作っていたのだ。チェザーレもまた「チェザーレ」ではない。女を襲って攫った怪物ではない。観客がそう悟ったところに、あのカリガリ博士までが建物の中から姿を見せる。いや、妄想の中のカリガリと違い、無帽の彼は髭を綺麗に剃り、髪も小ざっぱりと調えて、メガネも、その下でギョロギョロしていた目も、ホクロもシミもなく、温和な表情をした病院長だ。それまで偉そうに演説をしていた男性患者も、彼に声をかけられると挙手の礼で見送る。ここは、入院後のフランシスに、妄想のための材料としての役者たちを供給していた楽屋とも呼べそうな場所だったのだ。

しかし、そこに重要な役者がひとり欠けていることに観客は気づくだろう。「顕在夢」における連続殺人で二人目の犠牲者となった、フランシスの友人アランである。彼は精神病院にはいない――フランシスを除けば、彼が、ただ彼のみが過去において本当に存在したのであり、また、彼のみが本当に死んだのだ。フランシスの恋人ないし婚約者(どちらの呼び名も、妄想の中でさえ正しくない)すら存在しなかったのにアランは存在する。アランが――映画のはじまりの方で殺されて姿を消す友人が――かくも重要な人物であることに、観客はもっと驚いてよいのではないか。もとより彼は、カリガリ博士に操られた夢遊病者チェザーレに殺されたのではない。そんな事件はけっして起こらなかったのであり、本当にあったことが変形されたのがあのシーンなのである。それは本当に起こったことを見えなくしていると同時に、真実へ至る唯一の通路なのだ。もう一度言うが、私たちはフランシスの回想(=妄想)としてスクリーンに提示されたものを頼りに、「本当に起こったこと」に迫らなければならないのである。

「友達のアランだ」という字幕(フランシスによる傍の老人への、そしてむろん観客への紹介)とともにアランは現われる。明るい室内で立ったまま本を読んでいるアラン。彼は本を読みながら歩き回り、中央に置かれた椅子の、梯子のように高い――デザインも梯子に似て、伏せた細い半月状の横木が数本、水平に渡っている――背もたれの上に腕を置いてよりかかりながら読み続け、本から顔を上げて高窓に視線を移し、窓辺へ歩み寄りながら本をテーブルに置く。窓の内側の壁の厚みに手をかけて外を覗き、笑顔を見せて振り向くと、急ぎ足で右手――端だけが見えているベッドで、そちらが寝室に使われていることがうかがえる――のフレーム外へいったん出るが、すぐに外套を羽織り帽子を持って戻ってきて、そのまま左手へ姿を消す。

愛情をこめてアランに向けられたこの眼差しを覚えておこう。冒頭の庭で「僕の婚約者だ」と呼ばれた若い女は、けっしてこのように遇されることはなかった。回想の中で名指されることもなければ、このあとフランシスの部屋を訪ねたアランが、途中で受け取った市のチラシを示して熱心に誘う時の、じゃれ合うような仲の良さに匹敵するものが、彼女とフランシスの間に生じることもない。アランはフランシスの肩に抱きつくようにして腕を引っぱり、「フランシス、一緒に市へ行こう」と、回想の中での最初の台詞を口にする(つまり、字幕が入る。これで語り手の名がフランシスであることがわかる)。字幕から元の画面に戻った時も、アランはフランシスの腕を引っぱっており、フランシスは笑顔でチラシを見ている。二人は笑いながら顔を見合わせ、なおもしばらくじゃれ合っている。

回想の中のアランとフランシスの名は登場とほぼ同時に提示されるのに対し、「婚約者」(実際はその設定はない)が終始、〈彼女〉としか呼ばれていないことに、もう一度注意を促しておきたい。なぜなら、市からの帰り道、二人が〈彼女〉に出会って、三人で歩きながら話をする短いショットのあと、ふたたび二人きりになった時、いささか唐突にフランシスは、「アラン、僕達は二人とも彼女を愛している。どちらを選ぶかは彼女に任せよう。だが、どういう結果になったとしても僕達は友達でいよう」と、回想の中での彼のはじめての台詞を発するが、たぶん過去においてそのような事実はなく、このままの台詞が二人のあいだで交わされたことは無かったと思われるからだ。そもそも彼らがともに「愛している」女は全く存在しなかった。そう推定できるのは、〈彼女〉の登場自体がたんにこの台詞の口実であったと思われ、この台詞以外にフランシスの〈彼女〉への特別な感情はうかがわれず、むろん、言葉による表明も(最初と最後の精神病院の庭以外では)一切無く、一貫して親密さを、台詞よりもむしろ映像で示される、彼とアランの関係とは対照的であるからだ。ここでは二人をライヴァル関係にする〈女〉を、たんに形式的に提示できればそれでよかったのだろう。アランはフランシスの手を取り、二人は握手を交わして別れる[☆12]。

しかし、この台詞一つで、観客はフランシスの愛情の対象を誤認することになる。これは驚くほど効果的なカムフラージュであって、男二人の親密さは忘れられ、たいていの場合、〈彼女〉をめぐる恋敵、カリガリの犠牲者の一人としてしかアランは記憶されず、記述されない。このあとに語られる「顕在夢」もまた、アランを排除してジェーンを所有したいというフランシスの欲望が、言葉とは裏腹にチェザーレという形を取ってアランを襲ったものだと解釈されることになるだろう。夜行する“夢魔”としての分身=影のイメージが、影の本体(夢見る者/語り手)がフランシスであることを示唆するように思えるからだ。しかし、事件は本当に、口実として導入された〈彼女〉への欲望から起きたように描かれているだろうか?

「Night」―夜―という字幕が示され、ベッドで眠るアランに壁に映った影が忍び寄り、目覚めたアランは恐怖の表情を浮かべる。影が刃物らしきものを振りかざし、抵抗するアランの両手をつかみ、最後は襟首をつかんで締め上げながら刃物を振り下ろす瞬間までが、シルエットとして示される。
 翌朝、アランの死を知り、警察へ赴いたフランシスは、アランが殺害されていた状況について説明しているらしく、喉を押え、刃物を振り下ろす身ぶりをする。二人の警官は、何かに憑かれたようなフランシスの後ろで顔を見合わせるが、フランシスは「私はこの恐しい犯罪を解決するまで休みはしない!」と言い放つ。警官の一人がいったん部屋を出て行き、上司らしいマントの男を連れて戻ってくるまでの間も、三人が何やら話し合い出しても、フランシスは異様な表情で正面を向いたままだ。

フランシスの身ぶりは、壁に映るシルエットだけの殺人者によって、アランがまさにそうやって殺されたことを私たちが見たばかりであるからいっそう異様であるのだが、これは別に彼が犯人であってアランを襲った時の動作を強迫的に反復しているという訳ではないだろう。これは、アランは何者かによってこのように殺された――フランシス自身によってではなく、理由なき連続殺人以外の何らかの原因や手段によってではなしに――と確認しようとする身ぶり、すなわち彼がアランを殺した(象徴的に)ことの否認、その激烈な行動化なのである。彼は実際、拘束衣を着せられ、隔離室に入れられて、院長の手に触れられるまで「休みはしない」だろう。その時、「この恐しい犯罪」はどのように解決されていたか? そもそも、そのように変形される前の「恐しい犯罪」の本来の姿とは、いったいどのようなものであったのか。アランはどうして/どうやって死んだのか。フランシスの妄想に覆い隠され、その部分を復元することは難しい。しかし、直接表現されないものも、夢(妄想)という迂路を通って形をとるのであり、それがこの映画では、市で二人の青年が入ってゆく、カリガリ博士の見世物小屋でのシーンとして上演されているのである。

チェザーレ

見世物小屋のシーンは、明るすぎるライトのように強烈な情動で充たされている。これは、「本当にあったこと」――表には直接あらわれていないそれ――が圧倒的な力を振るっているからだ。情動においてはリアルで、昼の光のように鮮烈だが、そもそもこの出来事は現実の――現実にあった(ありうる)――ものなのだろうか。ウィキペディアの「カリガリ博士」の項には、見世物小屋で「アランが悪戯心で自分の寿命を尋ねた」(強調は引用者)とあるが、本当だろうか。むしろアランは、何かに突き動かされるように、強迫的に質問しているように見える。そしてフランシスは、それを懸命に止めようとしているではないか。
 とはいえ、そこで起こることの現実性は、一見、疑う余地がないように思われる。これが一場の夢だという、また、夢と同じようにかたちづくられた妄想であるなどという可能性は、見ている観客の胸を一瞬たりともかすめはしないだろう。逆に、回想が終ってそれまでの話がフランシスの妄想であるとひとたび判明してしまえば、公然と妄想であるとされたものの現実性をあらためて問題にする者は誰もいまい。

しかし、そこで、見世物小屋での挿話として語られているものこそ、『カリガリ博士』の核心にある事件なのだ。フランシスが自分にすら隠している出来事、アランの死の原因になり、ひいては彼に正気を失わせるにまで至る何かがそこで起こったのである。フランシス自身の検閲のため元の形は見きわめられないが、それでもなおそこに戻って、何が起こっているかを確かめてみよう。

――さあお立会い。当年二十三になる夢遊病者チェザーレのお目見え!
――二十三年間、昼も夜も眠り続けてきた驚異のチェザーレ!
――今日、チェザーレがその死のような眠りから目覚めるのを見られるよ。さあ、お立会い......

カリガリ博士の口上に惹かれたらしいアランが、気の進まない様子のフランシスを連れ込むようにして見世物小屋に入って行く。舞台の幕が上がり、カリガリ博士が、直立した箱の観音開きの扉を左右に開くと、中には絵姿と同じ、目の下に隈取りをし、黒く塗られた唇の男が立ったまま眠っている。
カリガリ博士は男に呼びかける。「チェザーレ! 私の声が聞こえるか? 私――カリガリ博士――お前の支配者が命じる! お前の暗夜から目覚めよ......」すると男の表情が動きはじめ、やがて目が見開かれる。

目覚めたチェザーレはそのまま前に歩み出て、舞台の縁まで来て立ち止まる。客席では他の観客とともに、フランシスとアランがこの光景を見つめている。アランは特に目を奪われているようだ。カリガリ博士は客席に向かって、「夢遊病者チェザーレはあなたが知りたいあらゆる質問に答えることができる。チェザーレはあらゆる秘密を知っている。過去を知り、未来を見通す」と言う。
 するとアランが、不意に、懸命に制止しようとするフランシスを振り切って、チェザーレとカリガリ博士の立つ舞台に近寄り、傍でうろたえるフランシスを尻目に「僕はどれだけ生きられる?」と訊いてしまう。チェザーレは「夜明けまで」と答え、アランは衝撃を受けた様子で、虚脱したように笑い出す。傍のフランシスはしばし呆然としているが、やがてアランをいたわりながら二人でその場を去る。

ここで重要なのは、まず、アランが積極的に天幕に入ろうとしており、予言を聞きたがったのもアランであり、フランシスはそれを止めようとしていることだ。そもそも市に誘ったのもアランである。ここには、「起こったこと」はアランが進んで招き寄せたものであり、自分のせいではない(と思いたい)という、フランシスの潜在的思考が表われていよう。
 次に、アランが質問をする場面での彼ら二人の振舞いの不自然さだ。アランはなぜ、むきになってそんなことを聞きたがったのか。また、フランシスはなぜそんなに必死になって止めたのか。たかが市の余興ではないか。アランが何を訊くのか、前もって知っていた訳でもないのに。
 いや、彼は知っていたのだ――「夜明けまで」という答えもむろん知っていた。考えてみればあたりまえのことである。全ては起こってしまったのであり、アランは彼のせいで夜明けが来る前に死んだのであり、フランシスは取り返しのつかない過去を、本来の姿のままでは近づけないほど自分から切り離されてしまった事件を、別な形で想起しているのである。だからこそ、フランシスは、懸命にその実現を阻止しようと(同時に、自分の関与を否定しようと)しているのだ。

ここで使われているのは、夢におけるのと同様の置き換えの手法に他ならない。アランの質問は何か別のものであり、チェザーレの答えも別のものであって、それに付随する情動だけが本物、すなわち過去において本当に体験されたものであったのだ。精神病院で回想される過去の世界にカリガリはいなかった(アランの死後、フランシスが入院してから、院長を素材に捏造した人物だった)。当然、カリガリ博士の見世物などというものも実際にはなかった。アランの質問もチェザーレの予言もなかった。そしてチェザーレもジェーンも、病院にうわつらだけのモデルがいるのみの存在なのだから、現実の過去の世界にいたのはフランシスとアランだけである。「カリガリ博士のキャビネット」にいたのもフランシスとアランだけであり、アランが質問し、チェザーレが答えるとは、実際に交わされた(そしてアランの死の原因を作った )フランシスとアランの会話がそのように偽装されているのである[☆13]。

チェザーレが、フランシスの抑圧された願望が形を取った分身と考えられることはすでに述べた。アランとフランシスが入って行った「カリガリ博士のキャビネット」とは、いわばフランシスの頭の中であり、であればチェザーレがあらゆる秘密を――むろんこれはフランシスのあらゆる秘密である――知っているのは当然であろう。見世物小屋での出来事は、彼ら二人のあいだに起こった、強い情動を伴った別のことの置き換えなのだ。二十三年間眠り続けたチェザーレが今日目覚めるとは、これまでの全人生でフランシスが抑圧してきたものが明らかになるという意味であろう。アランは訊いてはいけないことを訊き、チェザーレ(つまりフランシスの代理人)は言ってはならないこと、つまり、言えばアランの死を招くようなことを言ってしまったのである。「夜明けまでしか生きられない」とは、その発言がもたらした「結果」を端的に表現するものであった。見世物小屋での問答という見かけに隠された出来事とは、おおよそこのようなものだったと考えられる。

モンタージュ

見世物小屋での挿話のあと、場面は夕方の広場に移り、他の通行人たちと一緒にフランシスとアランが連れ立ってやって来る。(A)ではこの後すぐにジェーンが現われるが、(B)では、二人は、殺人事件の情報提供に千マルクの賞金が懸けられたポスターが貼られているのを見つける。アランは一瞬にして表情をこわばらせ、ポスターに見入った後、ひどく不安げな顔でフランシスを見返る。フランシスは脅えるアランの手首を握る。
 アランのこの反応は、彼の不安を殺人事件に前もって結びつけようとする印象操作に他ならない(同時に、二人の親しさを駄目押し的に強調しもする)。回想のはじまりからここまでは、実はアランとフランシスについての話とカリガリの話がカットバックされて、両者にことさら関連があるかのように見せている。わざわざ小間切れにしてつなぎあわせているのである。
 回想シーンはそもそもカリガリの登場からはじまっていた。正確には、立ち並ぶ市の天幕のセットが映され、ベンチで語るフランシスと傍の老人が一瞬映ったあと、「彼だ!」という字幕が入って、帽子の下のぼさぼさの白髪と髭、丸いメガネの小柄な老人が登場し、見世物小屋の列の前を杖を突いてゆっくり通り過ぎる。この直後に、すでに述べた、「友人のアランだ」の字幕に続いての、アランの登場となるのである。これに続く流れを順に書き出してみよう。

(1)街路に出たアランがチラシを受け取り、フランシスを訪ねて市に誘う。
(2)老人が役所に見世物の許可を申請しようとして、忙しい役人に横柄に扱われる(この時、彼が出す名刺で、老人が「カリガリ博士」であることが判る)。
(3)カリガリ博士が市の入口の、オルガンと猿の見世物の前を通り過ぎる。
(4)自分の見世物小屋の前で口上を述べ、客寄せをするカリガリ博士。
(5)「その夜から奇怪な連続殺人が始まった」という字幕。
 山高帽にマントの刑事と制服警官二人が、縦に置かれたベッドを覗き込んでいるショット。
 「町役場の職員は鋭利な刃物の一刺しで殺されていた」という字幕。
(6)(3)と全く同じ構図で、同じ見世物の前をフランシスとアランが通り過ぎる。
(7)カリガリ博士が客寄せをしているところに、フランシスとアランがやって来る。

(2)〜(5)はカリガリを連続殺人に結びつける操作であるが、時系列が少なからず混乱しており、「あらすじ」を作ろうとする者たちを途惑わせ、彼らは多かれ少なかれ、話を適当に刈り込んだり、つけ加えたりして辻褄を合わせている。そもそもアランを連続殺人の第二の犠牲者に見せるつもりなら、(1)を最初に持ってくるのはうまいやり方ではあるまい。市役所での出来事の結果 横柄な役人が殺されたとしたいのなら、(5)はむしろ(2)の直後に置くべきだろう。わかりにくさを避けるには、カリガリ博士が町にやって来る→役場で邪険な扱いを受ける→役人が殺されるというプロセスを提示したあとに、アランとフランシスを登場させれば問題ないはずである(実際、たいていの「あらすじ」はそのように書かれるか、役所での出来事をあとから説明してカリガリの犯行を暗示するかしている)。(3)と(6)では同じ背景の前(舞台のようにキャメラは固定されたまま動かない)を、カリガリとアランがそれぞれ左から右へ通り過ぎるが、これが同じ日に起こったことなのか、それとも何日も続いた(続いたとして)市の別の一日に起こったことなのか、観客には知りようがない。

しかし、過去に存在したものとして回想されているのは、実はアランとフランシスが市に出かけた一日だけであり、全てはその日に起こったのである。過去の世界にカリガリは存在しないのだから、彼らがカリガリ博士の見世物小屋に入ることも、まして予言を聞くこともあったはずがない。確実にあったと言えるのは(1)と(6)だけであり、それ以外のことは多かれ少なかれ、圧縮と置き換えによって変形されている。チラシやポスター、本や日記のページといった文字のインサートは、本当にあったものの想起(引用)の可能性が高い。殺人事件はあるいは実際にあったかもしれないが(夢=妄想に取り込まれて連続殺人を形成したかもしれないが)、アランの死に直接関係はないと思われる。

夜のあいだにアランが殺されるシーンについてはすでに述べた。翌朝フランシスは、アランの家政婦らしい中年女性の訪問を受け、アランが殺されたと聞いて部屋に駆けつける。フランシスが下手から部屋に入ってきた時、画面右端に縦に置かれたベッドは、この部屋が最初に映された時よりは多くフレームに入っているものの、役人の時と同じく、遺体は見えない。しかし、フランシスには見えたらしく、不意に帽子を取り落す。しばらく身を震わせていた彼は突然顔を上げ、「夢遊病者の予言だ!」と言う。

このシーンは、ベッドの向きや、遺体を直接見せない点で(5)の反復であり、二つの殺人の連続性(連続殺人の可能性)を視覚的にも示すものだ。むろん、このわかりやすさは囮である。このシーンの本当の手がかりは、部屋の奥、ベッドヘッドの傍にさりげなく――しかし、フランシスを左に配し、遺体はフレームの外だから実は画面の中央に――置かれた、例の高い背もたれを持つ椅子である。この時、椅子の座には花を挿した細長い壜が乗っている。この椅子はあと何度か現われ、そしてそれが最後に登場した時、真の連続性は第一の殺人とアラン殺害の間にではなく、椅子を共有する二つのシーンの間にあることが明らかになるだろう。

ジェーンの誘拐は完全なダミーであり、チェザーレに代行されるフランシスの欲望をヘテロセクシュアルなそれに見せかけるものであり、「顕在夢」のクライマックスを形作るものであり、広く流通しているイメージでもある(だが、真のクライマックスはすでに述べた見世物小屋でのシーンであろう)。これに先立ち、フランシスがジェーンの父オルセン博士の協力を得て、カリガリ博士とチェザーレの住まいである箱型の馬車を調べる挿話がある。先に述べたような警察での出来事のあと、警察署の階段をよろよろと降りてきたフランシスが片腕で顔を覆って泣き出すシーンに続いて、彼はアラン殺害をジェーンの家に報せに行き、話を聞いたオルセン博士から「私がその夢遊病者を調べるために警察から許可を貰おう」と言われる(たぶんこれも全部無かったことで、オルセン博士の娘は実在したかもしれないが、フランシスともアランとも恋仲ではあるまい。オルセン博士にフランシスの言い分がまともに受け取られたかもあやしいものだ)。とまれオルセンとフランシスはカリガリのもとへ向かうが、合い間には、事件を模倣した殺人未遂犯逮捕の話が挿入される。これも小間切れだが、しかしこちらはまぎれもなく並行して起こっている。二人はカリガリを追求し、チェザーレを目覚めさせるよう迫って押し問答になるが、そこへ「犯人逮捕」の号外を持った男がやって来たのでその場を去る。

このすぐあと、「彼女は父の帰りが遅いのを不安に思っていた」という字幕と、自宅の居間で父の帰りを待ちわびるジェーンのショットが入り、フランシスとオルセン博士が警察で容疑者の取り調べに立ち会っているシーンに変わる。いかにも悪党づらの髭の容疑者は、自分は例の事件に便乗しようとしたに過ぎず、前の二つの殺人とは無関係だと主張する。再びジェーンの姿が映り、彼女は人のいなくなった市の会場にやって来る。カリガリ博士の天幕の前まで来ると中からカリガリ博士が出てきて、ジェーンは父のことを尋ねるが、カリガリは彼女を招き入れ、直立した箱の中のチェザーレを示し、彼に目を開けさせたので、ジェーンは脅えて逃げ出す。

これは要するに、あとで誘拐された時にジェーンが犯人をチェザーレだったと証言できるよう、前もってチェザーレを見せておいたのである(表の筋では逆でチェザーレに彼女を見せたということになろうが)。
「葬儀の後――」という字幕が入り、墓地の門らしきところから、フランシス、ジェーン、オルセン博士の三人が出てくる。たぶんこれは本当にあったことだ――アランは本当に死んだのだから。そしてこれは正気のフランシスが出てくる最後のシーンでもある。このあとはもう、ジェーンを攫ったチェザーレを操っていると彼が信じるカリガリを追って、フランシスは精神病院に至る――現に自分がいる場所へ戻ってくるだけなのだから。


ジェーンが攫われるのに先立って、「Night again...」―ふたたび夜―という字幕が挿入され、人気のない夜の市へ入って行くフランシスの姿が映る。フランシスはカリガリ博士の見世物小屋を覗くが、誰もいなかったらしく、今度は家馬車のところにやって来て窓から様子を窺う。馬車の中には椅子に掛けたカリガリ博士と、横たえられ、蓋が開かれた状態の箱の中で眠るチェザーレが見える。

寝室で眠るジェーンのショット。彼女の家の外の塀に貼りつくようにして、チェザーレが戸口から家の中へ入り込む。ジェーンの窓にチェザーレが現われ、ガラスを破って侵入する。そしてジェーンの枕許に忍び寄り、刃物を振りかざす。だが、寝顔を見つめるうちに刃物を取り落し、そのまま見入っているとジェーンが目を覚ます。
 黒く塗られた唇で歯をむき出してチェザーレは笑い、悲鳴を上げるジェーンを抱え上げて、窓から外へ逃げようとする。オルセン博士や使用人たちが目を覚まし、皆はジェーンが連れ去られた後の寝室にやって来て、窓が割られているのに気づく。割られた窓から外を見た人々は、ぐったりしたジェーンを抱えて屋根の上を逃げてゆくチェザーレを見る。

ここで、フランシス視点でカリガリと箱の中のチェザーレを見た、窓越しのショットが入る。後でわかるが、このチェザーレはダミー人形なのである。一方、人々はジェーンを抱えたチェザーレを追って行き、町外れの山道らしきところで、チェザーレは追いつかれそうになってジェーンをその場に放置して逃げる。オルセン博士らは彼女を連れ帰り、他の者たちはそのままチェザーレを追う。
 山の中でよろめいて倒れ、谷間へ転げ落ちるチェザーレ。
 カリガリの馬車を覗くフランシスのショット。一晩中何もなかったのを確かめたフランシスはジェーンの家へ向かうが、そこでは連れ帰られたジェーンがオルセン博士に介抱されていた。われに返ったジェーンは、「チェザーレ!」と叫ぶ。フランシスは、「チェザーレのはずがない。僕は彼が箱の中で眠っているのを何時間も見張っていた」と言うが、ジェーンは譲らない。フランシスは外へ出て行き、それを見送ったジェーンとオルセン博士は顔を見合わせる。

警察署に行って模倣犯が独房につながれていることを確かめたフランシスは、例のマントの刑事と警官二人とともに、ふたたびカリガリ博士の馬車を訪ねる。カリガリの懇願を振り切って、彼らはチェザーレの入った箱を外に運び出す。フランシスが箱の中のチェザーレを抱え上げ、それが人形であると判った瞬間、カリガリ博士はその場から走って逃げ出す。

「夜」――それはアラン殺害に先立って挿入された字幕に他ならず、「ふたたび夜」とは、第一の夜が逃れ難く強迫的に繰り返されることを意味するものであろう。それはまた、二つの夜の同一性をも、異なる二つのものに見えながらそうでないことをも表わすだろう。
 最初の犠牲者はアランであった。今回狙われたのは〈彼女〉である。フランシスの欲望、第一の夜では殺しという形でしか表現できなかった欲望が、ここでは〈女〉というダミーを得て、明示的に性的な意味を帯びるに至った。窓を破って侵入し、横たわる女にナイフを振り上げるチェザーレとは、(当時のコードでは直接的に描くことを許されなかった)性的攻撃の暗喩でもあろう。しかし、それに先立つアランへの攻撃もまたそうだったのであり、私たちが見せられた、影と、恐怖の表情と、抵抗する手と、乱れるシーツと、どぎつい照明によって演じられた息づまる光景もまた、(文字通り)一種のベッド・シーンに他ならなかったことを、私たちは遡行的に理解された原光景のように知る。

〈夜〉とは、昼のあいだは抑えられていた欲望があらわれ出る時であり、灰色の墓石に押えつけられていた蓋が開いて、伏せられていた真実が立ち上がる時だ。語り手の悪夢こそが箱の中に眠るものであり、それは夜行する分身として本質的に〈夜〉のものなのだ。それが動き出さないよう、フランシスは眠らずに馬車の窓から一晩中見張っていたのだが、悪夢はダミーを置いて彼の知らないところで欲望を実行していたのである。「夜」と「ふたたび夜」との間にあった隔たりは消え、二つの夜は同じものとなり、第一の夜が明らかにしえなかったものを、真実の追求という表向きの意図に潜んだ彼の欲望――〈女〉への欲望に偽装されたアランへの欲望――を、隠蔽しつつあらわにする。

チェザーレがジェーンを誘拐するシーンの合い間にカリガリの映像が挿入されれば、観客はカリガリがチェザーレを操っていることの示唆として受け取るだろう。しかし、チェザーレが傍の箱の中にいるためそれは成り立たなかった。箱の中身が人形と判明してわかったこと、それは、一晩中眠らずにチェザーレを操り、チェザーレに己が欲望を代行させていたのは、分身としてのチェザーレを〈夜〉の中に解き放っていたのは、カリガリでなくフランシスだったということだ。チェザーレが箱の中にとどまっているのをこの目で確認し続けていたというのはフランシス自身のアリバイであり、フランシスがジェーンに「チェザーレのはずがない! 僕は彼が箱の中で眠っているのを何時間も見張っていた」と言うのは、「僕のはずがない!」と言っているのだ。しかしそれはフランシスなのである

見世物小屋での問答に変形された「本当にあったこと」とは何であったか。たぶん、アランは、フランシスを市に誘って、そこで彼への愛を告白したのであろう。それこそ、チェザーレに置き換えられたフランシスに対し、アランがしてはならなかった質問否ステイトメントであり、フランシスはそれに対して、「お前は死ぬしかない」と言うに等しい答えを返してしまったのだろう。
 それというのも、「質問」はフランシスがそれまで――二十三年間――隠し続けていた「秘密」にかかわるものであったからだ。ありていに言えば、フランシスもまたアランと同じ欲望を持っていた。フランシスもアランを愛していた。だからこそ、それを否認する必要があった
 アランはその夜、自ら命を断ったと思われる。ジキル博士のキャビネットの中で見つかった鏡のように、「カリガリ博士のキャビネット」の中で起こった出来事もまた、フランシスに彼自身の、鏡に映った顏を見せてしまった。そこから連れ出してくれるかもしれない者こそアランだったのに、その愛を拒み、あまっさえ彼を死に追いやってしまった。こうしてフランシスは、あまりに辛い真実を意識下に葬って、許されないもう一つの顏を持つ邪悪な父カリガリに院長を仕立て上げ(その意味では、彼は院長にも自分を投影しており、院長もまた別な意味で彼の分身なのだ)、そのカリガリがチェザーレを使ってアランを殺したと信ずるに至ったのだろう。

ナタナエル

これまで見てきたように、フランシスの“ケース”は、フロイトのシュレーバー症例や、同じく同性愛からの防衛としての他の症例の分析との共通性を持っている。入院したフランシスは、院長が患者である自分を〈女〉にしようとしているという妄想を抱き、また、院長(フランシスから見れば「カリガリ博士」に同一化した狂人)は彼にとって、運命を見通す支配者=神=父をも意味することになった。アランの死が自分のせいであり、愛する者を自らの手で殺したに等しいことにフランシスは堪えられなかった。カリガリに全ての責任があり、夢遊病者に予言させた通りにアランを殺させた、いや、むしろ、彼が運命を最初から握っていてアランの死は避けられなかったと信じることによってのみ、フランシスはその苦しみから逃れられたのだ。フランシスは患者たちに向かって、「愚か者たちよ この男は僕たちの運命を操っている!(You fools, this man is plotting our doom!)僕たちの命は夜明けまでだ」と言い、「彼がカリガリだ!」と叫んで院長につかみかかる。plottingしている――妄想の筋書きを作っている――のはカリガリではなく、彼自身――カリガリに操られているチェザーレからジェーンを救い、院長の仮面を剥いだ、異性愛のヒーローとしての自分を生きることで、アランを死なせた罪と自身の女性化をともに回避しようとする彼自身――なのだが。

フランシスの妄想は、フロイトがシュレーバーの手記に見出したのと同様の、「私が彼を愛している」という命題の否定として読み解ける。つまり、最初の命題は「私は彼を愛していない――私は彼を憎んでいる――それは彼が私を迫害するからだ」と変形され、院長と同一視されたカリガリ博士に固着した「迫害妄想」を形成するに至ったのだ。彼とアランには共通の知り合いである〈彼女〉がいて、三角関係だったという作り話も、註12で指摘した、同性愛に対する防衛としての「嫉妬妄想」のヴァリエーションとして理解できる。「私がアランを愛しているのではない――〈彼女〉がアランを愛しているのだ」および「アランは私を愛しているのではない――アランは〈彼女〉を愛しているのだ」という認識は、「私はアランを愛している」/「アランは私を愛している」という二つの命題の否認の結果生じたのである。

入院したフランシスは、父親のような院長に対して転移を起こし、伝説のカリガリ博士と彼の伴侶のチェザーレという素材を使って、院長の意のままにされたいという自分自身の欲望を、同じ患者である女性的な若い男に投影した。「院長に〈女〉のように受動的に愛されているのは自分ではなく、すでに女性的な彼である。だから自分はまだ〈女〉にされてはいないのだ」という、受動性の否認と外在化である。ここでフランシスとアランの「友情」を危うくした要素が、そのままカリガリ博士の“悪徳”に、また、カリガリ博士とチェザーレの関係に置き換えられているのに注目されたい。回想の中の「友情」は、かくして無傷のまま保たれ、〈彼女〉をめぐるライヴァル関係という偽の問題を介在させることで真の問題は忘れられ、死を予言されて不安がるアランをいたわり、友達でいようと誓った場面ばかりが事実として思い出され、フランシスにとってアランは純粋にその死を悲しんだ「友達」のままでいられるのである。

前述したようにフランシスが院長をカリガリ博士と思い込んだというのは、『砂男』の主人公ナタナエルがコッペリウスを砂男だと思ったようなものである。幼年時のナタナエルは、深夜、コッペリウスと父が怪しげな実験にふけるところを覗き見る――「そこら中にいくつも人間の顏が見えるようだった。だが、どの顏もどの顏も眼がないのだ――眼のあるべきところに気持の悪い真っ黒な穴がぽっかりあいているのだ」。ナタナエルがカーテンの後ろからかいまみた男二人による〈原光景〉は、女を交えずに人間を造り出そうとする呪われた所業であった。「眼をよこせ、目玉をよこせえ!」というコッペリウスの声にナタナエルは悲鳴を上げて倒れる。

大人になったナタナエルに、呪われた二人組はスパランツァーニ教授と眼鏡売りのコッポラとして再来する。スパランツァーニの娘という触れ込みのオリンピアに結婚を申し込もうとして、彼は二人の“父”の喧嘩のシーンに遭遇する。「まるっきり話が違うじゃないか――目玉は、目玉はおれが作ったんだ――ゼンマイ仕掛を作ったのはこっちだ。」二人は「女の形をしたもの」を奪い合っており、ついに実験用のガラス器具の並ぶ机の上にコッポラが教授を投げ飛ばす。「オリンピアのぶざまにだらんと垂れ下がった両足」を、木の階段の縁にガタンガタンとぶつけながら、眼鏡売りは木でできている人形を持ち去るが、その顏に眼がなく、真っ黒な穴が二つあいているのをナタナエルは見てしまう。この黒い穴は――フロイトの言うような去勢象徴であると同時に―― 直接的には髑髏(しゃれこうべ)のうつろな眼窩であって、言うまでもなくを意味する。

すでにスパランツァーニの舞踏会でオリンピアにダンスを申し込んで手を取った時、その氷のような冷たさに、ナタナエルは「むごたらしいの悪寒にぞっと刺し貫かれ」(強調は引用者)ていた。さらに、「ナタナエルの燃える唇を迎えたのは氷のような唇ではないか!――オリンピアの冷たい手に触れた時、彼は腹の底からゾッとして、突然、せる花嫁の伝説を思い浮べた」と、見紛いようもなくが指し示されていたのだった。「それは死―あるいは死んだ女」(ネルヴァル)。見世物小屋の前でのカリガリの口上――「のような眠りからチェザーレが目覚める」(B)――もこのヴァリエーションとして読める。
「コッペリウスめ――コッペリウスめが、生命より大切なわしの自動人形を盗みおったな。(...)ゼンマイ仕掛――言葉――動作――わしのものだ――目玉――目玉を盗った。呪われた――地獄の亡者め。」こうわめきちらしながらスパランツァーニは、コッペリウス(ママ)を追いかけるようナタナエルに言い、床の上からナタナエルを見つめていた二つの目玉を彼の胸に投げつける。眼のあるべきところに真っ黒な穴だけがあいた人形、血だらけの目玉――ナタナエルの目撃したのは、幼年時のオブセッションにまみれた彼自身の死体だったのである[☆14]。

フロイトも指摘するように、ここには「良い父」と「悪い父」がいる。『砂男』では、死んでしまう実父以外はおおむね「悪い父」であるが、フランシスの妄想の中のカリガリは、「悪い父」に見えて実は「良い父」だ。カリガリ博士は、乳母が幼いナタナエルに話した砂男のように、また砂男と同一視されたコッペリウスのように、熱せられた砂粒を子供の眼に入れたり、眠らない子供の眼を飛び出させて、血まみれの眼球を自分の巣へ運んだりしない。優しいその手でチェザーレを眠らせ、ついにはフランシスをも眠らすのである。

『カリガリ博士』、『砂男』、そして『ジキル博士とハイド氏』は、科学者(ないし魔術師)の実験による女性的/同性愛的分身の誕生という、共通したモチーフを持つ。『砂男』の場合は、機械工学技師(コッポラの前身コッペリウスは錬金術師)と言うべき二人の〈父〉が、女の人形(実は彼らの〈息子〉)としての主人公の分身を製作し、『ジキル博士とハイド氏』の場合は、医師であるジキル博士自身が、自ら調合した飲み薬で自分を作りかえる。つまり、自身を素材に、「“罪”=同性愛を平然と実行できる“悪”の分身」を作り出すが、この“悪”とは彼の中の「女性性」でもあった。そして『カリガリ博士』では、やはり医師であるカリガリ博士の生き人形としてのチェザーレの物語が語られ、実はそれは主人公の現状の投影=分身なのである。

澁澤龍彦は「悪魔の創造」(『思考の紋章学』所収)と題するエッセーで、『未来のイヴ』のエディソンと、『砂男』のスパランツァーニとコッポラ/コッペリウスを、「母の協力なしに娘(自動人形)を造っている、いずれも往古の連金術師めいた相貌の男たち」と呼び、これに、自動人形ではないが、幼い頃から毒を与えられて身体組織を変えられた「父によって造られた一種の人造人間、一種の人形」と言うべき娘たちを持つ『ラパチーニの娘』(ホーソン)のラパチーニと『毒の園』(ソログープ)の植物学者を加えて、「魔術師めいた父のイメージ」と呼んでいる。彼は、『砂男』の、人形を愛する青年と人形の同一性を指摘したフロイトに「まったく不服はないけれども、ただ、もう一つだけ、ここに父娘テーマを付け加えてほしかったと思っている。あえて言えば、父娘相姦のテーマである」と言う。

しかし、女の姿をした自動人形と青年の同一性が証明されたのであれば、これはむしろ「父子テーマ」と呼ぶべきではないか。「フロイトは現実生活で、まさに愛娘の父親という立場にあったから、ひょっとすると、このことを書くのに筆が鈍ったのではないかと勘ぐりたくなるほどである」と彼は書くが、私たちは澁澤に何も勘ぐる気はなくて、ただ、父娘萌えなので“父子”には気が回らなかったのだなと思うだけだ。だが、「人形を愛する者のナルシシズム的陶酔は、人形に対する狂気の恋愛によって破滅する青年の立場と、超絶的な力によって人形を支配する父の立場、この二つの立場を我がものとすることによって、初めて完全なものになるのではないかと私は思う」と言われると、少なくとも『砂男』は――そして『カリガリ』は――そうではあるまいと思えてくる[☆15]。

しばしば誤解されていることだが、『砂男』の“父たち”はナタナエルの対象選択[恋愛]に干渉して彼を操ろうとする訳ではない。父の愛(と迫害)の対象を、大人になった主人公は、最初、自分と関係のない〈父の娘〉と見誤り、カタストロフの中でそれが自分自身だったと知るのである。フランシスの場合も、カリガリの連れている“息子”チェザーレ(ここでは〈娘〉ではなく、はっきり男の人形)は、フランシスにとって、自分であることが意識されないままの、「女性的/同性愛的分身」の「物質化」なのである。

「オリンピアとマリア―ホフマンの『砂男』とフリッツ・ラングの『メトロポリス』」と題する論文で識名章喜は、澁澤同様、フロイトの「無気味なもの」を参照しつつ、コッペリウスに関節をはめ直されるナタナエルの語りを引用して、自動人形を「受動的存在の隠喩」であると指摘しながらも、「自らの不安と激情に翻弄されるまま主人公が人造美女オリンピアに求めたものは、他者としての女性ではなく自己の鏡像である」と、ナタナエルが対象としての女を求めそこなった(異性愛に失敗した)結果、自己の鏡像しか見出さなかったかのように論じている。しかし、フロイトが示唆するものは(「終りある分析と終りなき分析」を併せ読めばよりはっきりするが)、オリンピアが「美女」であるのは見せかけであり、父に対象として愛される(性的対象にされる)自己が女性の形を取っているに過ぎないということだ。ドラキュラについても触れたことだが、異性愛中心主義とホモフォビアが、ここでも視野を偏らせ、判断を誤らせている。ベクトルが全く逆なのであり、「父に対する女性的態度」とは男性のホモセクシュアルな欲望の一部なのである(ただし、最大の禁忌であるがゆえに至高の享楽――〈女〉の享楽――であると幻想されるものである以上、この欲望は普遍的なものであり、その欲望を持つ主体は「男性同性愛者」に限られる訳ではない)[☆16]。

☆12 ここでもまたフロイトの記述が有効であろう。「同性愛衝動に対する「防衛策」としての「妄想的な嫉妬」において、「僕は彼を愛している」の否認の結果生じるフレーズはこうだ――「僕が彼を愛してるんじゃない、彼女が彼を愛しているんだ!」(強調は引用者による)(“On Psychopathology”「嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について」)

☆13 見世物小屋には他にも大勢の客が入っていたようだが、「大勢の人」というのは「類型夢」の一つであるから、その意味はフロイト博士に訊いてみるといいかもしれない――「夢の中で「たくさんの他人」に会うのが何を意味するかご存知ですか。たとえば裸の夢などではしばしばそういうことが起こって実に恥ずかしい思いをしますね。その意味するところは他でもない――秘密ということです。つまりそれは反対のものによって表現されているのです」(『著作集』6「隠蔽記憶について」)

☆14 このスパランツァーニの台詞についてフロイトが、「眼鏡売りがナタナエルの目玉を盗んでオリンピアにはめ込んだという(…)スパランツァーニの申し立て」と書いているのを、フロイトの思い違いであり、ナタナエルの目玉は無事で、ここでスパランツァーニは、ゼンマイ仕掛の人形はコッポラに盗られたがこっちは相手の作った目玉を盗ってやったと言っているのだとマックス・ミルネールは指摘しており、これはその通りである。しかしフロイトの解釈も「精神分析学的に見れば正しい」というミルネールの議論にはここでは立ち入らないことにする。ミルネールは、ナタナエルからでなければこれらの目玉はどこから取ってこられたかという点に拘泥しているが、ここで重要なのは、ナタナエルに強迫的に取り憑いて離れないシーンが実現してしまったことであり、“父たち”の大喧嘩の結果、割れたガラスで負傷した(「血が噴水のように勢いよく噴き出した」)スパランツァーニの血が偶然付着したにすぎない目玉(彼が「怪我をしていないほうの手で」それをナタナエルに投げつけたと、ホフマンはわざわざ書いている)の与える心理的効果だけで、読者に対してもナタナエルに対しても十分であり、また、フロイトの言う「ナタナエルとオリンピアの同一性の証左」にもなりえており、何よりもこのスラップスティック的場面にふさわしい十分な馬鹿馬鹿しさがそなわっていると思われるからだ。

☆15 ヴィリエ・ド・リラダンの小説も別の意味でそうではない。「この恋人の肉体のみを忠実に模した魂のない人形は、エワルド卿の頭のなかだけで生まれた理想の女、幻想の女でしかなく、いかに科学の粋をこらしても、ついに「独身者の機械」以上のものではあり得なかったのだ」(「人形愛あるいはデカルト・コンプレックス」『幻想の画廊』所収)と澁澤は言うが、これはハダリーの「魂」たるソワナの存在を考慮に入れない議論(そうでないものはまず無い)である。ソワナの存在は“人造美女”が男の幻想の中で完結することを妨げる(それゆえ無視されてきた)ものであり、『未来のイヴ』を類書からはっきりと分けるものである。

☆16 識名はホフマンについて、「人造美女の関連で留意すべきは、人形愛の他に、二次元的な肖像や鏡像を通して恋に目覚めたり、憧れの女性への思いを深めたりする趣向の作品が実に多い点だろう」と言い、「アニメ・キャラに感情移入するアキバ系オタク」の情熱を引き合いに出して、「こういう「萌え」をドイツ・ロマン派で先駆けたのが他ならぬホフマンだったのではないか。人形を愛でる一八世紀の独身者の精神は、確実に秋葉原につながっている」と主張するが、これには全く賛成できない。男が受動性を自身のものとしては認められず、女という対象として確保せずにはいられないという点を考慮に入れていないからというだけではない。ロマン派の「美女」がしばしば人間ならざる化け物で、死と至高の愛と超越的な美と芸術に結びつき、破滅と隣り合わせであったのに対し、今日びの秋葉原にそんな心配は全くないからである。
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